ヤポネシア飛騨位山、アリゾナビッグマウンテン、生命の祭り、ヒロシマ長崎ピースウォーク、長良川ウォークと続いてきた。もちろん、過去にも未来にも歩き続けているのだが。

ミタクエ オヤシン 生きとし生けるもの

福岡県星野村、この度の平和の火の発信地ともいえる村。その村を流れる星野川より長良川まで3人のウォーカーが平和の火を灯し、大切に守りながら、時にはケンカもしたでしょうが、無事長良川ウォークまで届けてくれました。3人がその時渡った川の名を全てをメモして立派なお経を作ってくれました。宇宙を流れる全ての川をお経と捧げた長良川ウォークを経て、成田空港日本山法要に参加し、そして今、多摩川の川辺に腰をおろし、この文章を書いている。

おお多摩川よ、川岸段丘は平たく連らなり高圧線がそれを超えて行く。段丘は照葉樹林におおわれ、ところどころ杉が植林されている。川原にはハリエンジュやヤナギやハンノ木が林をなし、ススキやヨシが水辺に茂っている。のどかな初夏の午後、人々は川原に集いバーベキューなど楽しんでいる。ハトやスズメが、座ってるボクの横に寄ってくる。目の前には多摩川上水の堰がある。ここから上水は始まっている。昨年1月ここらでキャンプを張り、アリゾナウォークの一行が、一晩泊まり、祈りを結び東京都心へと歩いて行った。それから1年と数ヶ月、ウォークはアリゾナ、鹿島槍(北アルプス)、広島、長崎、長良川河口堰へと続いた。どういう訳だか続いた。ウォークはいくつもの、そして様々な戸口をたたき、いのちと共に歩み行く事を誓い合い、様々な生と死、シリアスな海と出会い、河と出会い、島と出会い、アスファルトの道路と出会い、もつれまじわる輪だち、金と権力と出会い、暖かな真心と出会い、死の干潟を前に生命の干潟再生を祈り、誓いを確かめ合い、上関原発建設予定地では、わだつみの神々への帰依を確かめ、ヤポネシアそして地球、この島に生きとし生けるものたち、この星に存在するものたちとともに核廃絶への祈りに火はともされた。
 長良川の源流、雪まだあつく残る。ブナ、水ナラの森、源流の岩の上、生命の祭りの後、突然のように亡くなってしまった仲間のためにセレモニーを行った。祈りの歌を捧げ、のりとを捧げ、星野川から長良川まで3人のウォーカー達の渡った、川の名の全てが読み上げられた。300余りあった。水をつなぐ。56億7000万年ミロクの世がやってくるまで、ミロクの世から、さらに繰り返される世々のめぐりをつらぬき歩かれるウォークのために、マントラは捧げられた。

オン シュリー マイトレーヤー

すべては心の完成のために歩いているのだ、川よ生きとし生けるものよ幸あれ。

ぼく達は川を下り歩き出す。こぶしの花々、桜ふぶき、目にしみる道の草々、緑やわらかく、川原の流木集め燃やし、オリオン、北斗七星、星々と語らいまどろみ、闇にひびく。川のおしゃべりの中に眠り、川風の寝袋から這い出し朝を迎える日々を重ね、長良川河口堰までたどりつけば、大きな流木ドーム、ティピーがいくつも建ち、仲間達が笑顔で迎えてくれた。シバシャンカラーの弓月が南天をまわり、西の山並みには、アミダの夕陽が赤々と熟しながら沈んで行く。おのずと祈りのサークルが出来、南無妙法蓮華経の太鼓をたたく人もあり浄められていく。そしてボク達は黙とうした。さまざまな声、さまざまな思いが一つになり、西方へ沈み行く陽の光へ溶け合っていく。すべては心の完成のために歩いているのだ。おお平和よ、川と夕焼けの沈黙の中へぼくらは帰っていった。様々なしるしがウォークを導いた。様々なゴースト達がぼくらに教訓を与えてくれた。つなぎあわされた虹の輪を、世界に、心に呼び戻す。あらゆる川の名は神聖でありマントラである。そこには死も生もあり、ありのままの姿であらわれている。川の流れは、生きとし生けるものの生き様を映している。川はあらゆるものをつらぬき流れている。心もまた川である。河口堰は海へと注ぐ流れを堰きとめ、水は死臭をはなつ。経済成長の真っ盛りに、30年ほど前に持ち上がったこの話。当時は四日市やらの工業地帯がその水を買い、工場経営するという話であったらしいが、バブルがはじけ、今や、河口堰にためた水を買うものとてない状態。しかたなしに愛知県の一部の地方の人々が、その死の水を金払って、飲まされている。それまでは、まだまだましな木曽川上流のダムから引いてきていた水を飲んでいたのに、公共事業経済の帳尻あわせのためだけに、死の水を飲まされている。これは殺人である。もちろん、長良川生態系も変わってくる。又、過疎の村々をおそう原子力発電所、これも殺人である。殺生である。戦争そのものである。原発も原爆である。

長良川河口堰のすぐ手前の河川敷で、ウォークの最終日にあたるギャザリングが行われた。これは、10年間つづけられた長良川ウォークの節目である、と同時にアリゾナから続いたウォークの節目であったように思われる。それは様々なピースムーブメントが一つになって、さらなる大きな流れとなっていくための節目である。長良川ウォークも今後若い世代に受け継がれて行くと良いと思う。2週間長良川を歩くだけ、川原で寝起きしながら、百聞は一見にしかずの効あり、地球上のあらゆる川がこのように歩かれますように。水の道に育まれる、生きとし生けるもの達の虹の輪がよみがえる事こそ、未来のために今祈られなければならないこと。戦争という狂気。狂気という戦争。底知れない無知からぼくらの心が開放されない限り、その輪がよみがえる事はない。平和へのあつい気流。つばさをひろげ集い来る仲間達の輪が広がりますように。長良川河口堰はあらゆる意味で成田空港問題であり、原発現地である。戦争、ビジネス、権力によって土地を追われ、奪われていく、生きとし生けるもの、成田空港はビックマウンテンであり、地球規模で破壊される森林である。それは死ぬまで虚しく議論を続ける心、平和を求めるほかでもない、ぼく達自身の心の問題の鏡なのだ。母なる大地とその意志。フォロー ザ パイプ その意志に従い生きていく。その事を愛情こめて学ばなくてはいけない時代なのだ。コントロールではなく、フォロー 。 アメリカインディアンを始め、地球上で先住民と呼ばれている人々の知恵に学ぶべきところだ。ロボット化された、ぼくら文明人の心の底にも、それは死ぬことなく灯され続けている知恵なのだ。最終日のギャザリングには、大いなる水のメッセージがぼくらをひたした。ウォークは果てしなく続く。世代を越えて広がっていく。今は議論を止め、悲しみの中でねむりこまずに、大きく心の扉をあけはなち、ありのままの世界、ありのままの自分を見つめる時。世界中の人々が原発現地で平和のためにセレモニーを行い集う時。虹の輪のつどい、島のあちらこちら、惑星のあちらこちらで行われる時、世界中の虹の人々がギャザリングをめぐる風となり、流れ出会い意識を共有する時、今は議論を止め、ささやかな焚き木を集め、大地が、生きとし生けるものたちが自由に、すこやかに羽ばたけるよう静かに祈る時。

ウォーク、ギャザリング、コミュニティーづくり、それらは一つである。歩く事と生きる事が一つであるように、生きる事祈る事は一つである。生命の彩りを失った森に、生命の彩りを呼び戻そう。そしてその中にボク達も生きられますように、

一歩 一歩 百年 二百年 歩いて行こう。

はなればなれにならずに
花々をまなび 花々の道を
よそおいかるく 歩いていこう

ミタクエ オヤシン
大鹿村 内田ボブ

― 追記 ―
ウォーク、ギャザリング、ビオトープ、コミュニティー、
生きとし生けるものと集いのキャンプ、
村づくりが流行りになるといい。
地球を利用することばかり考えないで、
太陽を利用することばかり考えないで、
共に生きることを学び豊かさを心に実現すること。
戦争は頭をつかうが、平和はなにもつかわない。
川は自由に流れている。

                    ボブ