「はい、東京事務局です。」「何日に合流の予定ですか?」「じゃ、〜〜線の〜〜駅下車…」「最後、近づいたら必ずウォークの携帯番号に電話して合流の予告をして下さい。」「寒いので防寒と、自分の食器、有料の施設に泊まる事もあるので、現金も持って下さい、じゃ、いってらっしゃい…気をつけて!」。

っていうような会話を、受話器を取る度に、毎日何度もしていた去年の冬。それは熱い熱い、The Long Walk for Big Mountainの日々。その後に「いのちの祭り 2000」が8月に向かって高まって行ったし、秋には日本橋からヒロシマ、ナガサキまでと、東海道を歩く「HIROSHIMA PEACE WALK」が続いて年を越した。止まらないウォークの人たち…と、私はため息混じりに、そして、誇らしく思っている。今もう一度、事のはじめからを<TOKYO 事務局>として振り返る事になった。

それは、Y2K世紀末を、一歩一歩、自分の肉体を現実に動かして、ヒトが意志を持って歩く姿。自然に歌い、声は雲や木々や、風や虹とハーモニーを奏でる。実際に歩くウォーカー達に、歩けないけれど祈りを託した無数の人たちの気持ちがそこにはあり、日が沈む頃に辿り着く場所と、迎えてくれる暖かい食事と笑顔がある。ワークとしてのウォーク。すごい仕事を共にした仲間たち。…しかし、今だビッグマウンテンは、何の解決も得ないままに、いつ退去の強行を受けても不思議ではないという状況は、変わっていない。だから、私たちは今もポーリーンおばぁちゃんの横顔を思いながら、もっと多くの人たちの心をつなげるようにと、本を作る。だから、美の道を、ひとりひとりが、今日も歩む。調和への道のりをまだ、一歩一歩。

2000年の元旦 日の出、ウォークのスタート。大晦日、テレビ局の記者から「取材カメラが入る事になった」という電話で、東京事務局は目を覚ます。ポンとアキが先頭に立っていた。実践的オルタナティブの先輩達の一歩が、飛騨位山の聖地のご来光を浴びて歩むその姿が、東京のこのパソコンの画面にもすぐに配信されてくる。そこが日米ネイティブの交流の始まった所縁の地、亀の島と弓の島は、自然引き合っている磁力を発揮していった。酸素ボンベのお世話になっている、そろそろ老齢のポンちゃんを日頃お世話してくれていた近所の店の大原さん、電話で何度もやりとりをさせてもらった。セレモニーに集まってゆく人たちを受け入れる、出発点最初の地域の世話人と宿泊受け持ちが決まっていたからこそ…と、そのあと長野、山梨から甲州路、高尾以降東京へのコース沿い宿泊ポイントが次々に確定して行ったプロセスを思い出す。事の始まりはバヒ・キャダニーというメッセンジャーが緊急来日して交流会がもたれ、現在のディネの状況を耳にした時の、「日本から今できることは?」という気持ちだった。とにかく期限に老人達を危険な中で孤立させないよう、「日本からも支援に歩き出そうと思う…」というハルの声に呼び起こされたのだ。日本の私たちがこれまで、北米先住民の明かし始めた伝説や知恵、生活技術、精霊達との語らいなど、どれ程の恩恵を受けて来たか、これはお礼参りのようなものだと、私はできる事をしようと決めていた。

田舎暮しでなるべく質素で、エネルギーを使わない、少しだけでも土に日常的に接しているような生活。結局自給的な農の暮らしなど、足元にも及ばなかったけれども、私なりに10年ちょっと、そういう<選び取ったライフスタイル>らしきものが実現できた。その後再び、5歳からの故郷である大都市東京に戻ることになり、どこか申し訳ない気持ちで、どうしても不本意ながら、暮し始めたところだ。人には事情というのがあるものである。だけど東京だからこそできる仕事があり、東京が変わる事の面白さに熱中している<都市型田舎人>のような層にも出会い始めた。どんな道ばたにも野の花は咲き、季節を告げる木と鳥達のコロニーがある。エコロジーは心とつながっていた。今ポジティブにロング・ウォークに関わる事は、自分を見つける事でもあると思えた。
夜空にずっと流れ星が歓声を上げさせる、澄み切って張りつめた、大鹿村の冬。コースを決めたのは、スウェットロッジをしてから夜のカズ宅でのミーティングだった。真っ赤に焼けた石をスコップでくべていく、その度に祈りの言葉を添えた、スウェットのファイヤーキーパーのその真剣な動作のように、ミーティングで地図から距離を読み取り、コースが書き取られて行く。後半部分は翌日、カズの勤め先の博物館に集合し直し、夕刻までには全行程が決定。コース沿いに宿泊提供者を見つけ、話し合ってお願いを実現につなげる為の、丁寧なコミュニケーションをする担当者を決める。私は東京の、アメリカ大使館に署名を届けるパレード、そして成田からアメリカへ出発となる、その最後の1週間程。広報の分担、ウォークのチーム構成、通信連絡系など、あっという間に黒板にはイメージが描かれて、大体ビジョンは共有されていた。みんなで見る夢は現実になる。現実にする為に、自発的に始める事だった。

自宅に戻るとまず、東京ミーティングが準備されて、70年代に日本縦断したミルキーウェイ・キャラバンなど、当時平和行進やインディアン交流の最初の波があった時代の経験者で、現在は三鷹で八百屋を営むトモくんに仕切りをお願いした。年末年始、それでなくとも忙しい有機栽培の八百屋さんだが、すぐにヨハナさんたち地元の女性サポーター達が動き出した。五日市街道沿いにしっかりとした態勢ができていく。東京はウォーカーも増える事だろうしと、受け入れ側は緊迫もあった。しかし、理解とは素晴らしい。話を知り「食材だけでも」とカンパする主婦層の支援。ホビット村ではトモが普段の太極拳の講座をそのまま「ホピの予言」上映会に振り替えて、100人超える集客とカンパを得た。「どうしてもの場合は…」と、例外的に宿泊も引き受けてくれたホビット村。教室コーディネイターのゆりこさん、村責任者の八百屋のナモ。理解は実践だ。ウォークは学校みたいに、色んな事を教えてくれる。インターネットではこのウォークをメールで流すと、『人間家族』や『なまえのない新聞』が記事を掲載し、レインボーパレード事務局が印刷に協力、その他数え切れない色んなサポートが始まった。

一方、岐阜県から長野に入り、大鹿村レストデイのスウェットを経て、ウォークは毎日続く。日々移動して東へ東へとやって来るウォーク。山梨連絡のおおえさんや藤田君とは「笹子トンネル」をバトンタッチのラインとして、東京のチームでこちら側を引き受けることになった。「こっちは朝送り出し、昼のお弁当は作って行く。夕刻にはピラミッドなんだけど、伴走どうしようか?」と訪ねて来る藤田君の問いに、埼玉県飯能の<瓢箪から駒>チームの下村君とケンゴ達が応えて迎えに走り出して行くことになった。山根麻衣さんが<ピラミッド>を提供してくれるにあたって、翌日<無形の家>と2日間、担当となっていた直子さんが連絡に尽力。詳細の相談に出かけて、どうも最後は現場のスタッフさん達が状況を理解し、これまでにない異色の集いに、心動かされてくれたようだ。麻衣さんとの信頼関係は大きく、サポーターの姿勢も、小さな出会いと話し合いのひとつひとつが、まるで、歩く一歩一歩と同じ意味を持って、受け入れ態勢を作り出して行った。レストデイに、虹のかかるコンサートがかなった、あの日だ。

東京圏で伴走につくケンゴたちに、「日の出の森トラストへ是非!」と強力に導くトットたちが連なっていた。高尾山頂からスタートする日、下山したのち、駅近辺から幾つかの街道を選んで急激に北上して、トラスト地を経由、全行程中最も歩行距離のある一日となった、多摩川べり羽村キャンプ場までの複雑なコースを、彼女は一人で下見をして決定した。キャンプはエミリーと澤さんがみてくれていたが、コースが決定できる地元の人がやっと現われたのだ。ヨハナさんとはWEBの地図、紙の地図、電話、メール…頭の中がよれよれになりそうなやり取りで幾つものコースを話し合っていたが、最後は寸前にトットが実際に道を走って決めた。だけど…大きな変更が当日あって、そのお蔭で、私だけは今回のウォークへ合流しようとしてできなかった、唯一の人だろうと思う。高尾から降りて来る一団を迎えたくて朝から高尾山に向かって甲州街道を行き、昼にあきらめた。「あぁ、その人たちだったら、車の少ない旧甲州街道を歩いてました」と、帰りがけ、駐在の奥さんが教えてくれた。インフォメーションの窓口をしてる本人が、迷って会えなかった訳だ。

「なんで携帯くれないの?」、翌日一団にやっと会えた時には批難轟々。…って程ではないが、なんか嬉しすぎて、一日お手付き位したってしょうがないと、そんな感じかな。照れくさいような、感動で真っ白で、おごそかで、本当にウォークに混じって一緒に歩いている自分が居た。歩きながらボブが歌い、2〜30人の声が次第にハーモニーになり、世にも不思議で天上の楽士達の歌かというような、そんな音楽をほんとに一瞬耳にした。やさい村の畑でお昼をいただいて、そこはまた、砂川反戦として知られる場でもあり、なんとデニス・バンクスが当時、反対側の米軍に居たという驚くべき「場の記憶」。Peace。私たちは21世紀を、もう戦争をしない人類へと、進化したい。進化とは、暖かい心で、人を思いやる事のできる、いざとなったら正義の為にいつでも立ち上がれるフットワークを持って、状況に臨機応変に対応する、そういうごく当たり前のしなやかなやさしさなんじゃないかと、この頃思う。

この畑に電話がかかってきた。最終日の大使館パレードで協力関係をとってきている警察。申請がおりたので、受け取りに来て下さい…という、渋谷署からだった。「ガイア仮説の話から、私たちはひとつながりで、お互いに相互依存しつつ、全生命と共に生きているのです…なんちゃって。偉そうにレクチャーしちゃったんだ」。まず2度通った警視庁では、これは公安扱いなのか、それとも道路交通法なのかなどなど、あまり過去にデータのない初めて出くわした行進の内容に、相当あたふたしていた。途中電話で色々確認したり、別の階にいる「上の人」にサインをもらって来たりと、二人の担当官が、交代で走り回ってくれた。真面目に話を聞いて、うなずきメモを取り、質問し、こちらがすべき事、当日の注意点などを確認。最後に「私もこう見えて、家に帰れば父親ですから」。そういう、人間らしい人間に会えた。

一度風邪になって少し寝込んだあと、その渋谷駅近くの公園から日比谷公園まで、途中アメリカ大使館経由というパレードの日を迎えた。警視庁からは若手の方の担当さんが出て来てくれていたし、ピース・サイクル、世界を自転車で旅している外人のチームが合流し、朝の集合からパンやおにぎりが一杯提供され、全行程から遠路様々な顔ぶれが集まってくれていた。アキの車にボブのギターがあり、青山の街角へ先回りして、ギターを弾きながら青空に大声で歌った。「はなればなれ〜にぃ〜ならずにぃ〜、花ばなを学び、花々の道を装い軽く歩いてゆけよぉ♪」「ヤポネシアフリーウェイ、ヤポネシア」。イェイ!ホッカヘイ!硬質な反射、灰色な246沿いのビル街では、まるでジプシーのような色とりどりの私たちは本当に美しい。日輪、太陽の周りに淡く虹があり、日比谷公園の空には雄大なドラゴンの雲。ウロコひとつひとつがはけで描かれているような、あんなのは忘れられっこない。

そして、アメリカへ渡ったウォークは、主にあきお君が日誌のように書き記すデイリーレポートと、かつみ君が撮影するカラーのスチルでずっとフォローされた。ここまで来るともう、みんな家族。その旅路を見守っている。モノクロ写真も大量に、帰国後写真展が行なわれて報告会があった。今だ野ざらしのウラニウムの残滓、大規模な地下水の浪費。電離層の渦が示す全地球的バランスを保つ、重要な地上4ケ所のうちのひとつである、ここブラック・メサが破壊されたら、一体今後どうなるか? 結局デッドラインが寸前延期され、退去の強制執行については、今だはっきりとは解決されておらず、いつなんどき、又新たな硬直状態に追いやられても不思議ではないという日常に、ポーリーンさん達は放置されている。そんな頃に長野松本では、ヒロシマ原爆から55年という年月、一瞬も絶やさず燃え続けた火が発見(編注:福岡県八女郡星野村で保存されている原爆の残り火の分灯先の一つがここにあった)された。バウさんが、ウォーカー達が、岡野さんが、各々にその火を伝えて動き始め、バウさんの分燈がまず、小淵沢でおおえさんの庵に灯された。岡野さんはグラストン・バリーのフェスティバルへ。ロンドンのチベット・ファンデーションの手で王立戦争博物館のピースガーデンでも灯された。

8月長野大町で行なわれた「いのちの祭り2000」へと、その流れは自然引き継がれていて、祭り自体がヒロシマの火を神宮寺から「ウォーク・イン・安曇野」の数日間で会場まで運ばれて、それを迎え入れて最初のオープニングのサークルが開かれた。セレモニーメッセージは薫子さんが、ハルとウォーカー達の灯した大きな大きな輝く松明に照らされて、しっかりと、失われた魂たちとの交流をも含めて、声にした。神主さんも、お坊さんも、それぞれに聖なるマントラを捧げ、ウォーカーはネイティブ・アメリカに伝わる祈りの歌を歌う。溶け合っていて、新しい儀式だ。今、ここには、精霊達と共に生きる人々がいる。精霊と共に、虹に次ぐ虹、いのちの限りに多様な今を展開して、その祭りが終わる時、また、次なる歩みがひとりひとりにもたらされる。

私は実際そのあとはずっと、フォーラム、シンポジウムの記録テープ起こし作業。やっと最近全部が終了したところで、インディアンタイムさながら、半年はじっくりかけてしまった。やはり、多くのボランティアのチームが一緒で、メールが主な通信手段。ウォークで馴染んだ連絡方法が身について、今は国会内の怪しい原発推進に偏りつつある法案へ、市民グループがオルタナティブをじっくりと話し合う機構を内部に作り上げる努力が続いている。プルサーマルという、原発以上に危ない発電を止め、種子島ばかりでなく全国の過疎地が狙われる中間貯蔵処理プランに対する警告、アースデイに向けたニュース、自然エネルギーの勉強会、まだまだ続いているハワイのリゾート開発や、飛び込むローカルな環境破壊の実情。諫早湾は一体どうなるのか?ダム、水、人権問題や、新たな農業について、路上生活者支援から、ダライ・ラマのメッセージ、各地の集いのお知らせまで。毎日メーリングリストが速報をもたらし、そういう祭りネットと、その他のネットのリンク。そんな中での出会いを、時には「名前のない新聞」紙上に反映している。小さくてシンプルなメディアをもち、アナログもデジタルも双方生かして、21世紀の始まり。

ふと思う。ウォークが学校みたいだと。そこには、男も女も、何歳であろうと、人は成長し続けていて、学びの場であった。歩く事と、伴走に回って炊き出しと、双方を経験したと言う若者が話していた。「歩いているとお腹が空いて、飯が嬉しくて、作ってくれる人たちに感謝します。歩けない時は料理をして、食べてもらう事を通して、また、自分の分まで歩いてくれているみんなに対して感謝の念が湧くんです」と。また、別の若者は「僕は初めてこころから、ありがとう!と言えた」。武蔵野交流会のビデオの中のひとこまだった。例えばの話だ。そう言っていたひとりは、今、父親になっている。実際、そういう巡りがもうあり、時は人生のページをこうしてめくっていく。四季が確実に一巡りした。

私は何を学んだろうか?素直で、まっすぐな気持ち。明け渡して<全部>に聞き、それと共にある時の調和的なバイブレーション。世界は、人間社会は、今だ未熟で、問題が山積するが、しかし希望を失わないでいる。たとえば、「トランス・パシフィック」という概念を知った。環太平洋の西と東、戦争が終わってから、アメリカが日本の保護者のようにして始まった、その時期に結婚した親のもとに産まれた私たちの世代。それ以前の世代とは確実に違う文化で育っている。高度成長、高エントロピー生活。経済競争を原理とした、資本主義の興隆期と、仮の成功のあとにくる、様々な反作用…公害と心の喪失。そんな時、「トランス・パシフィック」は、明るい視点をもたらした。三省とゲーリーの本「聖なる地球の集いかな」(山と渓谷社)の後書きだ。

私は前回88年のいのちの祭りの頃からこう思っていた。「日本人がルーツを失って、北米の先住民族から学ぶしかない程に、自分達のオリジナルの伝承をもたず、日本人は日本人たる文化を忘れてしまった」と。だけど、それはそれでよいのであり、反動から反省のもと、わずかながらまた、戦前や江戸時代の生活文化とテクノロジーの見直し、あるいはアイヌ、琉球や縄文の復活がある。むしろお互いにそれまで未知の存在だった日米の若者が、ベトナム反戦やそこにうまれたアートシーンなど通して出会いながら、西洋と東洋の知を互いに発見し、取り入れながら学び現在に生かして、これまでにない、全く新しい文化を創出しているという所に着目したのが「トランス・パシフィック」。戦後民主主義は初めての経験をしながら、育っているではないか。スピリチャルであること、自給的であること、環境との共生を旨とし、地球規模で考え地域で活動を展開して、それは最初、対抗文化として現われ、しかし今では唯一の地球人存続の可能性を拓く、パイオニアとなっている。ここにこそ希望がある。ここに育つ新しい生命に、21世紀は夢見ている。若者達に、日本の若者達に、全世界を旅して欲しいと、ゲーリーは提案している。

情報は溢れんばかり。だからこそ、たったひとつの自分のからだをもって、耳で聞き、目で見、足で歩き、指で触れる、匂いを嗅ぎ、自分の頭で考えて、そして、次の一歩を踏み出せと。それ以外に信頼に足る確信が他にあるか。自分の感受性を磨き、信じよう。そういうことか。だったら、私は私でいいんだ。…と思う。先日写真家のかつみ君が言っていた。「代表なんだからさ」。私たちはひとりひとり、そこに集う事のできたシーンに対して、自分に続く沢山の人たちの代表なんだということ。自分を信じ、そして常に自分以外の多くの生命の連なりを意識していよう。それが一人身勝手に自己中心的に生きるってこととは、ちょっと違う、もうひとつの自分への覚醒だ。それは内省、内観の鍛練、いつも「見ている自分」に「気づいている」という、<今・ここ>Be Here Now。究極は普段の当たり前の普通の、ありのままの私。私がいるから世界があるのであって、それだけ特種で特別の誰とも違う自分であり合っている。だから、他の生命達のやる事を知る時に、それがどれ程切実か理解できる。精密にしてワイルドな、いのち的因果関係と必然の賜物。全存在に奇跡を見る。その自分の中で、深く自分でいる事ができたら、それだけきっと仲間の輪は広い。精霊達までも、私たちは話し合いながら、生活するようになれるだろう。

モンゴロイドが(おそらくアフリカから)歩いて一万年間、現在の北米N.Y近くのオノンダカ、イロコイ族の住むそのあたりまで、ずっと旅路の間にあった物事を口承で継承したという、その物語には、日本国憲法やアメリカ合衆国憲法が知恵をもらった源泉でもある彼らの物事の決め方、語り合い方などが記されている。(『一万年の旅路』ポーラ・アンダーウッド/翔永社)主に長じて経験を積んだ女性エルダーたちが適所に重要な決め事をしている。子供や老人や弱い人、物言わぬ生き物達みんなへの目配り、思いやりから問題を早めに察知し、全員で相談して対処し、必要な役回りを相応しい人に任せて行く。かけがえのないのは、誰も損なわれないようなコミュニケーションへの配慮。全員が気高く、そして尊重されるべき事、持てる才を最大に発揮して事にあたれる様な工夫。その中に「もし鯨と話して生きる海辺の人たちにどんな話をしてるか、どうやって話すのかを教わる事ができたら、その時には少なくとも人間同士の喧嘩や戦争はなくせる」というようなくだりがある。物語りの最も現在に近い、本では最後の方の時期、人々が昔はなんとかせずにクリアして来た戦争を、どうもしなければならなくなって来てしまった…というような、モンゴロイドの歴史にとっては不承不承のニュアンスだ。西暦21世紀の今日まで、人類は愛しあいながら、殺しあいを続けて、歴史とは戦争の歴史である。今日、地球のどこかでそれは止まない。今、私も「もしも鯨と話し合えたら…」と、全く同感、そう思うのだ。

最近ビッグマウンテンでは…と、この原稿の依頼でハルが電話をくれた時に話してくれた。「The New Long Walk」 (編注:アリゾナで発行されたマガジンの記事のタイトルになった。記事参照)と、最近のウォークは呼ばれているそうだ。あれは古いウォーク、これは新しいウォーク。現地でそう名付けられたのは、きっとリアリティがあるからだろう。「日本から歩いて行こうと思う」。それが現実になったことの、真実がフィードバックされてくるようで、新しい波はこのようにして、大平洋の向こうとこっちで呼応しながら展開している。弓の島から亀の島へ。古臭くてものすごく新鮮な、不思議な人たちがいる。

巨大なウェイブを感じる事ができる。最後の氷河期の終わりに始まったモンゴロイドの歩み。「それから1万年…」という単位くらいの時のサイクル。地質を調べて、まだ例えば渋谷は道玄坂のてっぺんくらいが海岸線だったという頃の話を普通に繰り広げるカズの悩み「今、浜岡が危ない」。もういちど、戦争に明け暮れる次元に埋没したいのか、もう平和を基盤に、経済や贅沢、物欲に追い回されない心の安らぎの中、共生の次元に滑り込んでいきたいのか。…問われ続けていて、答えはだんだんと、時間が明らかにして行くに違いない。


ありがとう、The New Long Walk for Big Mountain.  
sakino 星川まり@Tokyo事務局