2000年1月1日夜明け、位山分水嶺。ここから湧き出る水が北は日本海に南は太平洋に流れてゆく。インディアンに伝わる祈りの唄を歌い、日橋さんのサンダンス・パイプにタバコを詰める。同じく日橋さんのサンダンス用の鷲の羽根が405コの色とりどりのタバコタイの巻かれたスタッフ(祈りの旗)の先端で小雪の降るなか風に舞っている。

この行進のため急拠その目指すべきビックマウンテンからやってきた若きディネのティム・ソーが自国語で祈りを捧げ、いよいよ行進は本当にスタートした。先頭には地元高山の酸素吸収器をつけたポン(山田塊也)さんと杖をついた大鹿村のアキ(田村アキ)さん。この時、この行進の持つ意味が初めて解ったような気がした。

この長老格の2人の後ろに目に見えないいのちの流れが続いている。今は亡きホピのトーマス・バンヤッケ、日橋さん、島貫上人、大鹿村のアキラさん…、このいまの時代、生涯を通じて守り残そうとしたいのちの道(WAY OF LIFE)。その道の上に身を捧げてきた数知れない無数のいのち。それはいまいる僕たちの生きてきた時間のなかのことだけではない。はるか古代までさかのぼり、そのいのちを捧げてくれた魂たちの、それは人間だけではない、山も森も川も海も草も木もケモノも鳥も魚も虫も石も水も空気も…すべてのいのちがこの行進に連らなり後押ししている。それはあたかも2000年前に始まった人や他のいのちを支配する時代、自然を支配し、破壊するような時代が終わりを告げようとしているのだ、ということを。いや、そんな抑圧されてきたすべていのち、目に見えない無数の魂がもうそんな時代を終わらせようとしているのだ、ということを直感した。ふりかえれば、行進に至る一連の動きは、全く偶然とは思えない、何か目に見えない大きな力で動かされた必然の流れだったような気がする。

昨年夏、ビッグマウンテンから帰ってきた僕たちは絶望していた。この10年来、毎夏行われるサンダンスに出向いてたくさんのことを学ばせてもらっているのだが、そこで目にする状況は年々悪化し、いまやサンダンスの時でさえここで起きている強制移住に対する闘争(ストラグル)の話もあまり聞かれなくなっていた。この聖なる山と伝統を祈りの儀式を通じて守っていこうと、遠くラコタ(スー)の地よりここビッグマウンテンへ招聘された儀式であるが、はじめ一つの場所で行われていたサンダンスは、2つに分かれ、そしてビッグマウンテン地域ではないが一昨年に1つ、昨年に1つ、計4つのサンダンスがディネのクニで行われるようになった。また、オリジナルサンダンスの場所であり、後にHPL側(ホピ分割地)となったサバイバル・キャンプからNPL側(ナバホ分割地)へ、'96年を最後にサンダンスでさえ強制移住されてしまった。

ビッグマウンテン・ディネ独立国を夢見たその中心の場所サバイバルキャンプ・サンダンスの終焉。

ここに一人で住み簡素な庵を道場に修業ご祈念されていた日本山妙法寺の島貫潤二上人が3年前に亡くなり、1年前にはこの地でサンダンスが始まる前から通い続けていた日橋(政男)さんが亡くなった。昨年('99年)夏のサンダンスはそんななかで始まった。ジュンジ上人とニッパチさんもいない初めてのサンダンス。一昨年来日し、伝統的なセレモニーの数々を伝えて帰っていったチーフ・クロウドッグ(A.I.M. のスピリチュアル・リーダーでここのサンダンス・チーフ、ラコタ民族)の彼のファミリーに起きた数々の不幸に対する癒し。半年先に迫る強制移住最終期限(デッドライン)に向けての最後のサンダンス。チーフたちが「もう来年(2000年)のサンダンスは行われないかもしれない」とささやくなか、より強く、より真摯に祈りと癒しが請われた4日間だった。

HPL 内に住み、いまだ一切のサインを拒否し抵抗を続ける一人の長老の女性、ポウリーン・ホワイトシンガーを訪ね、話を聞いた。「いろいろなアイデアが持ちこまれ、ビッグマウンテンは混乱を極めホピとの間はおろか、いまや親戚、家族の間でさえ分裂してしまった。いま私らに出来ることは、ただこの大地に祈ることだけ…」その言葉に自分たちの無力さを思い知り、日々、朝夕、そしてスウェットロッヂやサンダンスのなかでビッグマウンテンのことを想い、 "祈る" ぐらいしか出来ない、とそう思っていた。それをボブ(内田)さんから一喝された。

「ビッグマウンテンがなくなっても、ビッグマウンテンで起きているような問題はなくならない。この日本にもそして世界中にビッグマウンテンはある。それに対して僕たちはどうするのか、どんな声を上げるのか、どんな行動をしていくのか。同じ時代に生まれてきた者として、7世代先の未来を見据え、どう生きていくのか。それが "祈り" として問われているんだ。」

国家的犠牲領域(ナショナル サクリファイス エリア)としてアメリカや日本など「先進国」文明社会の「快適」な生活を維持させるために、自然が奪われ、それを守る人びとの伝統が破壊されてゆく。ビッグマウンテンはこの世界で起きていることの一つの大きな象徴だ。地球上いたるところ、自分たちの住むクニにも、そして一人一人の心の中に聖なるところ、ビッグマウンテンはある。一地域一民族のこととしてだけではなく、ビッグマウンテンを祈ることは、この世界を、この日本を、そして自ずからのいのちを祈ることなんだ。腹にストンと落ちた。2000年2月1日まで残されたわずかな時間、何が自分たちに出来るのかをもう一度考えた。そのすべての行動を祈りと出来るかどうか。

その一年程前にトモノリを中心に、毎年ビッグマウンテンに行く仲間たちと一人でも多くの人にこのことを伝えようと、ホームページを開設した。ビッグマウンテンのバヒ(キャダニー)発の情報を英語と日本語で世界中に発信する。ちょうどその頃ビッグマウンテン・サンダンスのチーフ、レナード・クロウドッグが来日することとなり、そのツアーオーガナイズと合わせて自分たちの名称をつけた。「WALK IN BEAUTY PROJECT」ディネのお祈りの言葉からいただいた。すべてのいのちがいつまでもホジョナ(美、調和、バランス、平和…その意味するところはすべて大いなる美を含むディネの言葉)の中を歩けますように、と祈りを込めて。

昨年、八月に奈良で行われた「虹の祭、地球にごめんな祭」の時、レインボーパレード実行委員長の河千田さんと話をしていたとき、突然10月に行われるレインボーパレードの別行進(ブランチウォーク)としてアメリカ大使館まで一日ウォークをしようと思い立った。河千田さんもこの話を快諾してくれ、そのために署名を集め始めた。署名活動などそんな経験はいままで全くなかったが、どうせなら大使館まで署名を届けに歩こうと。そして九月に行われる九州阿蘇の「旅人のまつり」で10代20代の旅する若者たちに呼びかけようと思い立ったとたん、突然ビッグマウンテンから地元ディネのサンダンスチーフ、ノーマンと、なかでも勇壮なサンダンサー、マーシャルが北海道の松山さんの招きで来日することになった。急遽、江別の松山さんの牧場「ホピの丘」へ出向き、'98 SACRED RUN日本オーガナイザーの原田ミドー、アイヌ民族の石井ポンペさんも交えて、祈りの唄やスウェットロッヂを行った。そのあと二人のサンダンサーに了解を得て、アイヌモシリから九州に飛び「旅人のまつり」に合流した。「虹の祭り」天空オーケストラの岡野くんが中心となり、世界中に'99年9月9日夜9時に一分間だけ黙祷して地球とすべてのいのちと自分自身に「ごめんなさい」しようと呼びかけたその日、九州はクマモトの九重山を望む場所で、朝の九時と夜の九時にスウェットのなか、そして火の前、皆で祈りを捧げることが出来た。そしてビッグマウンテンのことと、レインボーパレードでの大使館ウォークのこと、そのための署名の協力を呼びかけた。大勢の若者が熱心に聞いてくれ、署名をしてくれた。そのあと、日橋さんのいた長野・望月町のゲンさんおケイさんところで行われた「太陽の村祭り」や山梨・道志村のちょうどクロウドッグが最後にスウェットロッヂをした同じところで行われた「タイコをたたこう」で、ウォーク参加と署名を呼びかけ、アキオ、熊谷モンちゃんと一緒に断食してレインボーパレードに臨んだ。

10月17日当日は、アメリカ・インディアン運動の指導者デニス・バンクスも来日しており、このビッグマウンテン支援のための米大使館ウォークを喜んでくれ、ステージからそこに居る多くの人々に支援と参加を呼びかけそして祈ってくれた。署名を集め始めてから40日ほどで、4,000名を越える署名と、100人近い行進参加者が集まり、無事大使館まで歩き届けることが出来た。このどちらもが、僕たちの予想をはるかに越えるものだった。

11月、サンダンスの頃から考えていたビッグマウンテンの活動家で日本とも縁の深いバヒ・キャダニーを、一年前に亡くなった日橋さんの一周忌法要に合わせて来日してもらい、各地でデッドラインに向けて緊急ミーティングを開くことにした。日橋さんの命日は12月9日だが、法要は11月22日ご縁の深い日本山妙法寺熊本道場で開くことになっており、バヒの都合を聞きスケジュールを決めた。11月17日、関空へ到着したバヒを迎えて大阪の堀越由美子さんのところでお世話になった。その前の日、日本山成田道場、伊藤上人から電話があり「もし成田へ着くのならお寄りください。島貫上人の丸3年の命日ですから」と言われた。全くの偶然だった。ユミさんも知らなかった。急な法要を、けれども素晴らしいセレモニーをユミさんの事務所の御宝前でさせてもらった。バヒはディネの言葉で祈り、「ジュンジ上人はお坊さんでありサンダンサーであり、兄弟だった」と話し、サンダンスの唄を歌い、サンダンスで使う鷲の笛を吹いた。ユミさんも「偶然、島貫上人の写真を御宝前の正面に置いたところだったんよ。」と言った。そんななかバヒの3度目の日本の旅は始まった。

翌日は福井へ、八木上人の13回忌に出席するため車を飛ばした。バヒも僕個人も八木上人とは直接のご縁はない。ただ生前、日橋さんやNY州グラフトン道場の安田行純庵主さんから幾度となくお話を伺ったことがあり、日橋さんからはかつて八木上人の御遺品のお地蔵様をいただいたこともあった。その壮絶な死も含めて多くを知らない八木上人の法要にお参り出来る機会を日橋深雪さんよりいただいたことに感謝して福井の道場に向かった。

古いお仏舎利塔にバヒと共にお参りし、その期間のなかで触れた八木上人についてのお話に僕もそうだが、バヒも深く何かを感じてしまったようだった。日橋さんの縁で始まった今回のバヒとの旅は、毎日のように島貫上人、八木上人の縁に深くつながっていくことに、不思議な驚きとともに何かスピリチュアルな導きを感じずにはおれなかった。

その後、ポンさんを訪ねて高山へ向かった。

道中、バヒは亡くなった島貫上人がビッグマウンテンで修行された日々は、彼自身にとって果たして幸せなことだったのかどうか、と、いろいろなエピソードを想い起こしてはしきりに自問していた。潤二上人がビッグマウンテンを後にした頃と、バヒがサバイバルキャンプを離れ実質サバイバルキャンプを中心としたディネ独立国(S.D.N)の夢が失われた時期とが重なっていた。潤二さんの心を思いやるバヒの心が同じように傷ついている。地元の内部の分裂がその深い原因となっていることが、バヒの語る言葉とその表情からうかがえた。ビッグマウンテン S.D.N サンダンス。ロンゲスト・ウォークの後、自分が中心の一人となり、ラコタとディネ、それぞれの伝統的メディスンマンの指示を仰ぎ、幾度も断食し、ラコタのクニへ通い続け、サンダンスを踊り、そのなかから、ビッグマウンテンへの招聘を決めた。そしてディネ本来のものでないからと反対する地元の人を一人一人説いてまわり、聖なる場所と人びとが切り離されないことのみを祈りとして初めてディネの地で行われるようになったセレモニー。

ここ数年はサンダンスにも姿を見せることも少なく、来ても人目を避けるように帰ってしまうバヒのそうする理由が解ったような気がした。かつての夢の数々といまにいたる数々の出来事を語るバヒ。僕にははじめてビッグマウンテンの現実が深いところで理解できたような気がした。その時、バヒに一つのアイデアを話そうと思った。今がそれを語る時だと思ったからだ。

バヒが関空に着く前の日、大鹿村の河本カズさんから電話が入った。少し興奮したカズさんらしからぬ口調で「アキがポツリと言った言葉に心動かされた。ビッグマウンテンに残る長老たちに我々の想いと行動を直接届けるべきだ。彼らが伝えようとしてきた生き方を彼らの次世代だけではなく、海を超えたところに住む我々もその生き方を学んでいるんだ、ということを伝えよう。永い闘争の果てに孤立する残された数名の長老たちが、いずれスピリットの世界へ旅立つ時、その時に絶望のなか旅立つか、まだこの世界に希望を見取って逝くか、このことはとても大事なことではないだろうか。バヒ自ずからがここのエルダー(長老)たちを指して言う、 "最後の本当のインディアン" 。彼らの最期が絶望か希望か、そこに我々の出来る "何か" があるのではないか。何らかの行動を自己満足とせず、それを直接彼らに伝える。例えば、日本からビッグマウンテンまで歩いてゆくWALKを起こせないだろうか。我々イエローネーションの民がレッドネーションの危機に連帯して行動する。そのための祈りの行進である。

かつて1978年、自分も参加したThe Longest Walkもその始まりはデニス(バンクス)の一言からだった。自分もその会議のかたわらで聞いていたのだが、合衆国とインディアンのクニグニとの間でかつて交わした全ての条約を反故する法案が議会を通過するのを阻止すべく、リーダーたちが集まり知恵を絞った。が、しかしいいアイデアが出ない。時間も大巾に過ぎた頃、最後にデニスが言った。 "こうなったら歩くしかない。我々の権利を我々の手に取り戻すために、サンフランシスコからワシントンDCまで最も長い道のりを歩いていこう。" その結果ロンゲストウォークというスピリチュアルウォーク(精神的な祈りの行進)が起こり、最終的には1万人ものインディアンが参加し、赤い人たちに混ざって数千人の白人、黒人、黄色い人も歩き、その法案は廃案に追い込まれた。その時、日本山妙法寺の藤井日達上人と共にお弟子さんたち、そして日本人数十人も参加し、現在にいたる彼らとの縁も始まった。それに習うわけでもないけれど、まず日本から、例えば日橋さんの住んでいた長野・望月から東京まで歩き、海を超え再びビックマウンテンまで歩いてゆけばどうだろうか…」

この話を聞いた時、これは一つの啓示(VISION)である、と予感した。しかし、これを実現させようとすれば大変なことに違いないし、個人的には2月1日デッドラインデーには単身ビッグマウンテンで何が起こるかを見届けようと考えていたので即答をさけ、明日来日するバヒとの旅の道中にじっくりと考えてみようと思っていた。

この話をバヒに打ち明けた。バヒの表情が瞬時に明るくなり、すぐに "それはいい" 、自分もフラッグスタッフからビッグマウンテン北部、石炭の大規模採掘が始まって久しいブラックメサまで歩くウォークを考えているのだと言う。そして歩くなら位山から出発しろと言った。何故なら初めて来日した12年前('87)ポンさんが中心となりアイヌの長老豊川エカシと島貫上人、白光真宏会の両角さんらと共に位山で「母なる大地に祈る集会」のセレモニーを行ったこと。そして位山にもビッグマウンテン同様太陽を祀る祠(サン・シュライン)があるからだ、と言った。サン・シュラインからサン・シュラインまで歩いていこう。'87年以来、かつての飛騨先住民の聖山位山が日本のフォーコーナーズの中心、ビッグマウンテンであると比定したのはポンさんだったが、本当に位山とビッグマウンテンが繁がってしまった。

因みに英語では大きい山、という意味のビッグマウンテンだが、これは誤訳でディネ語では大いなる山、偉大なる山という意味を持つ。ホピのクニ、ディネのクニを取り囲む四つの聖山の交わるブラックメサの、そのなかのまた四つの聖山の交わるその中心に位置する山である。古来地元のものでも登ることを禁じられ、メディスンマンだけが、特別な捧げ物と特別な祈りの唄を持って登ったという。その祈りの場所が太陽の祠である。しかし、現在では登る人も、祈りの言葉も失われてしまったと、バヒは言う。メディスンマンを含め多くが既に強制移住させられ、残された少数の祈りの唄を覚えている人たちは年老いてもう自力では山に登れないのだと。

12年振りの高山でポンさんと再開したバヒは、その話には触れずに互いの近況を語り合っていた。翌朝、その近況いろいろあるポンさんと内田ボブさんを交え話すうちに、ポンさんの心況が健康状態も含めあまり康ばしくない様子で、話がどうしても "死" に向かうのを見かね、ふと今がこのウォークの話をすべきだという気がしてこの一連の話をはじめた。するとポンさんも一転してその表情が変わり興奮状態で「ナニ、まだこのウォークのオーガナイザーがいないなら自分がやる」と言い出し、そして酸素吸入器付の身にも関わらず、厳寒が予想される位山からのウォークを「自分が最初のウォーカー、ファーストウォーカーになる。バヒ、おまえはラストウォーカーだ」と早々に宣言してしまった。

ビッグマウンテンの70、80の長老たちを見習って、日本の60代の長老にはまだまだやるべき役目と仕事がある。死んでいる場合ではない。そんな感じの展開だった。そして本当にこのことは多くの人に降りてきているヴィジョンではないかとの確信を深めた。このあと長野望月町、東京、三重、神戸、行く先々でのビッグマウンテンミーティングでこのウォークのアイデアを呼びかけた。厳寒の雪の多い高山から山を幾つも越えて歩いてゆくウォークにも関わらず、多くの人から興味と賛同の声が聞かれた。東京では、'70年代にミルキーウェイキャラバン(生存への行進)を先導した大友さんが、同じく12年振りのバヒとの再会を果たして、このウォークに対する貴重なアドバイスをくれた。三重では、'80年代よりホピの予言、SACRED RUNに関わっている月の庭のマサルが賛同してくれた。神戸では、久し振りに「ホピの予言」の宮田雪監督と再会し、ここでは1月出産予定の夫婦が赤ん坊を背中にしょって歩きたいと言ってくれた。
そのあとバヒは九州へ飛び、日橋さんの一周忌法要にお参りし、これまた12年振りの阿蘇の山に祈りを捧げ、亀の島へ戻っていった。10日余りの短い滞在だったが不思議な縁に導かれた今回の日本再訪は、12年一巡りのビッグマウンテンと日本との縁の再確認と、新たなる未来への希望の糸を繋いだ旅だった。

12月4日、雪に覆われる前の位山、太陽神殿へ、ポンさんアキさんはじめ地元茗荷舎の大原さんら有志10名程がお参りし、この行進への加護と成幸とを祈ってくれた。12月9日、日橋さん一周忌の命日に合わせ、大鹿村へ集まり、スウェットセレモニーを行ったあとこのウォークのための具体的なミーティングを持った。'78 The Longest Walk、 '80 The Long Walk For Survival、 '88 〜 SACRED RUN、 '92 Spiritual Walk …現在に至るさまざまなウォークやランの経験者、そしておおえまさのりさん、ヒロさん、パン屋のケンちゃん、星川マリちゃん,春のうらら、上村トモちゃん…いのちの祭り、虹のまつりに関わってきた人たちがカズさん、アキヨさんの家に集まった。カズさんはロンゲストウォーク以降、アメリカに滞在中ビッグマウンテンの問題を知り、はじめて日本に知らせた人でもある。

最初このウォークは2月1日より位山を出発し、デッドラインデー(当初は全世界の注目が集まる2月1日は逆に何も起きない公算が強いとの予測があり、関心が薄れるそれ以降の時期を問題としていた)以後2ヶ月位かけて世間にアピールしながらビッグマウンテンを目指そうと言う予定であった。しかし2月1日に何も起きない保障はどこにもなく、そうなった時に2ヶ月もかけて歩いてゆく場合ではないのでは、だから何がなんでも2月1日デッドライン時点には現地にいるべきだ。との西尾の牧さんからの意見で予定が変わった。では2月1日ビッグマウンテンにいるためには、いつ位山を出発すべきなのか?アメリカを西海岸から歩くことはあきらめて、アリゾナ州フラッグスタッフからスタートするバヒの計画中のウォークに参加する。逆算してゆくと、2000年元旦前後の出発。2000年元旦!? 1月1日の初日の出を位山で拝んで歩き始め2月1日デッドラインデーのビッグマウンテンに到着する。Y2Kの懸念を越えて99から00に日付が変わった年の夜明けから、日本の聖なる山から亀の島アメリカの聖なる山目指して巡礼が始まる。

ビッグマウンテンが象徴であるならばこの行進自体も象徴だ。

インディアンウォークの伝統であるノードラッグ、ノーアルコール、ノーバイオレンスを自分に課して雪の山道を歩いてゆく。自身の一歩一歩をただ祈りとしながら聖地を目指す。来たるべき時代に向けての精神的な生き方の象徴だ。そう感じたのは僕だけではないだろう。翌日ある程度ルートとスケジュールの最初の案が出されたが、果たして各地での宿泊先、支援者は現れるのか。バヒとのツアー中ボブさんとはたとえ2人きりのウォークになろうとも、食料,身仕たく各自でやりながら、ただ歩いていこう、と話してはいたが、いざ考え出すと色々なことが出て来てしまう。もちろん気持ちの上では、そんな旅の原点を目指すことには変わりはなかったのだが。

年末のこの忙しいなか、準備期間が3週間しかなく、まして最も寒い時期、北アルプスの方角から中央アルプス、南アルプスと雪山を越えて東京を目指す行進だ。夏のようにとり合えずキャンプしながらという訳にも(希望としては)いかない。それでもある程度、野宿も覚悟はしていた。

とにかくもう始まってしまった。時間があろうとなかろうと、無謀とも見える計画も、いまから思えば逆に時間があったらあっただけ、違うことにもなっていたのかも知れない。もちろん、この限られた少しの期間のなかで、関わった人それぞれが各地に足を運び、ミーティングを持ち、いままでのつながりのなかで実にテキパキと物をそろえ、人と人をつなげ、このおもいつきを現実へと変える努力をしてくれた。おおえさんは、2000年いのちの祭りを各地でやっていく上で、最も大事なスタートとなるということで、ウォークの名前の上に「いのちのまつり2000」というタイトルをつけてくれ、その関係する人に支援と参加を呼びかけてくれた。最も時間のない高山では、ポンさんとこの辺りの中心となっている茗荷舎の大原さんやバグースのみんなが、この忙しい年末の時期に、またビックマウンテンには直接縁もない人が多いにも関わらず、この行進の果す意義を理解してくれて、積極的に支援、準備を進めてくれた。もちろんほかの場所も同様に多くの人が忙しいなか、心に何かを感じてくれて受け入れ準備と参加、支援をしてくれたと思っている。

そうして1999年大晦日、両面スクナを開基とする飛騨宮村の千光寺のログハウスにティピが立ち、火が焚かれるなか、全国各地から、フランスから、ビッグマウンテンから、いまだ見知らぬ兄弟姉妹たちが集まった。約40名のウォーカーたち。

数時間後に懸念されるY2Kカタストロフィーへの不安よりも、
予言された来たるべき新しい時代の夜明けを信じて


調和と再生の新たなる千年紀に向けて
IN BEAUTY, WE WALK
HOKKA HEY !