未来を奪い去りつづけてゆくわたしたちの文明―『奪われし未来』(シーア・コルボーン他著翔泳社刊)が明らかにするそれ。環境にばら撒かれた内分泌撹乱物質、核の拡散、増大する原発、遺伝子組換え……文明そのものの歩みがいのちを危機に陥れ、わたしたちは魂そのものの存亡を激しく問われている。お前は誰か?と。

危機の中で、いのちへの激しい意識の高まりがあり、それらがウオークを、いのちの祭り 2000 を立ち上げていった。

Y2K を越えて、2000 年1月1日に飛騨高山を歩きはじめたウオーク(「いのちの祭り2000―The Long Walk for Big Mountain」)。それはいのちの世紀へのウオークとして、いのちの祭り 2000 を喚起し、2000年12月31日到着のヒロシマ & ナガサキ・ピース・ウオークへと歩きつがれていった。

ウオークのそこには、これまでの運動論とは異なるものがきらめいていた。
大地を歩くことそのものが大地への祈りであることを実感し、歩いてゆくに従って祈りそのものになっていったという、参加者たちの多くの声があった。そして歩きつづけてゆくそこに次々と新たな人が、コミュニティが立ち現れ、渦を成していった。

通常、運動というと、ある地点からある地点への、ある地点からある運動の達成すべき目標への運動としてとらえられる。

しかしこのウオークは、どこかへ行く運動、達成すべき目標に向かって歩きつづけるウオークから、舞踏のそれのように、一瞬一瞬生の極点に立ちつづける、どこへも行かない運動として立ち現れてきたものがあった。

いのちのここに居つづけること、いのちの営みのそこに生きつづけることによってこそ、いのちの世紀は拓かれてくる―そうしたことに気づかせてくれたウオークだった。

そして祈り―大地への、今ここにあることへの感謝の心―はやがて、人をして
霊性の大地を歩くわたし、霊性的存在としてのわたし(人)に目覚めさせていってく
れた。そうした力と熱気とヴィジョンがそこにあった。