「ザ・ロングウォーク・フォー・ビッグマウンテン」
長野県飯田市周辺に参加して

「ウォーク」までのいきさつ
友よ、過酷な日本の道の今を実際に歩いた「位山〜ビッグマウンテン・ウォーク」について、現場を見れなかった君に報告しよう。もっとも私も自動車追突事故の後遺症にたたられて、断続的にしか参加できなかった。1月6日7日の長野県飯田市周辺と、1月20日から22日までの東京周辺のみのサポート役と、最終日に渋谷宮下公園〜日比谷公園を歩いただけだから、そこそこの印象記に過ぎない。それでも、伝えることが私の道だと思うから、書いてみよう。まず、これまでの成り行きから。

昨年9月の阿蘇「旅人の祭」が、この流れの始まりだった。

それまで、毎年6月にアメリカ先住民の聖地ビッグマウンテンのサンダンスに参加している、40人の日本人の表情は暗かった。83年、私の悪ガキ仲間だったニッパチも発起人となって始まった、聖地を石炭採掘より守るためのサンダンス。そこで深く交わった伝統的な先住民の老女たちが、この2月1日に迫る強制移住の最終期限を前に落ち込んでいたのを、もろに受けて戻ってきた。彼らの心の奥で、海外にまで探し求めた聖地と聖なる体験が失われるという、絶望感が共振する。

そこに現地ディネ族のストラグラー、バヒ・キャドニーから世界中の統一抗議行動の呼びかけが来る。日本側からも、「いのちの祭」のグループが合流を呼びかける。太平洋をつなぐ道は、阿蘇山に開いた。'99年9月9日「旅人の祭」は、'88年8月8日八ヶ岳「いのちの祭」の次の世代が中心となり、かつての世代も撹乱気味の応援に駆けつけた上に、インドの吟遊詩人バウルと日本人弟子たち、そしてディネ族のシャーマン一行も加わった。多様な民族と世代の集いとなった。日本人サンダンサーたちは、阿蘇からビッグマウンテンのアピ−ルと署名集めを始めた。

奈良県東大寺の「虹の祭」に続く、10月の東京代々木公園「レインボーパレード」では6千名の署名を100人のデモ隊がアメリカ大使館にとどけるまで、盛り上がった。その署名数とデモ人数は、同時期に実施されていたヨーロッパ各国のものを凌(しの)ぐものであったので、先住民側は「日本人の多くは宗教乞食だ。自分のストレス解消以外の問題には背を向ける」という印象を一変させ、更なるアピールのためバヒ・キャドニ−が来日する。

高山では、酸素吸入器を付けて落ち込んでいたポンに会う。バヒが、高山の聖地位山の太陽神殿から、ビッグマウンテンのサンテンプルまで歩こうと提案する。ポンは再び輝き、南アルプス赤石岳の麓に住むボブやアキ、そしてあの飄々としたカリスマ故ニッパチの道を継いだサンダンサーのハルとアキオとナガイが、受けて歩くこととなる。やはりサンダンサーのトモノリが、ホームページを立ち上げる。

1978年、アメリカ先住民が、彼らの人権問題をアピールする方法が見つからず、ならばただ歩こうと始めた、太平洋から大西洋までの「ロンゲスト・ウォーク」に参加したカズやタイも関わった。サキノは、キイステーションを受け持ち、またたく間に各地のサポーターと宿泊所も決まった。

これまで、一番だらしないと思われていた30代を核とした新しい動きの特徴は、チームワークの良さである。カリスマなし、グルなしの、時代が始まった。ホームページのウォーク日記も、チームワークを求めている。私も、3ヶ月の治療生活からようやく飛び出し、昼神温泉で合流した。そこは3年前に、農村原風景復元ビオト−プのプロジェクトを試みた村でもあったので、ウォークを受け入れてくれた旧知の村の人とも会いたかった。君とも体験をシェア−したくて書いたが、この記は、内と外との間、当事者と第三者との間のグレイゾーンを漂う、旅人から発信された印象に過ぎないと、承知してくれ。

 

断層を越える

飯田駅の外は、もう暗かった。ウォークの一隊が泊まるはずの昼神温泉行きの最終バスは出た後だった。でも2kmほど離れた駒場までは、クラブ活動をする高校生用に一本残っている。(ウォークの一行も高山から歩き続けた。俺にも歩けということだ)と、ほぞを決めたが、一抹の不安はある。

10月に追突事故に遭ってから、歩行訓練程度の距離しか歩いていない。今日も高速バスを利用すればもっと早い時間に着けたのに、あのソファ!の角度が腰に悪い。そこで空いてたら横になれる鈍行列車を乗り継いだ。東京から6時間のインド並みの旅。巨大なインドアーと化した都市から来ると、伊那谷の寒さは身にしみる。
バスの終点は何もない所だった。たった一人で降りると運転手が窓を開けて「あっちに真っすぐ行けば、左手の丘に温泉センターの明かりが見えます」と、笑って言った。

谷間の空は真っ黒だ。その底を時折車のライトが突っ走る。道路の端の肩幅ほどの歩道、日本の田舎の心細い現代をたどって歩く。左手は水も見えないまで切れ込んだ谷だ。途中歩道沿いの鉄橋に荷を乗せて、何回か立ち止まって休んだが、気がつくと温泉入り口ゲートの前にいた。そこに飾られている看板に、目的地の老人保養センターは見当らない。脇の飲み屋に入って聞くと、客もいない細長い店の奥から女将が「あれは閉鎖されているはずですよ」と疑わしそうに私を見る。知らない人はオームと思えだ。(俺の出た後、塩でも蒔くんじゃねーのか)とも、勘ぐりたくなるように振られた腕の方向に歩く。急にリュックが重くなった。水商売の女までが人間を見定められない。正月明けの旅館街は人影もない。(不景気なのは俺のせいじゃねぇ)と怒鳴りたくなる。それに答えるように、オルゴールみたいな音が響いた。大きな橋の真ん中に灯篭みたいな時計台があり、そのガラスの板の向うの歯車が回るにつれ、音がスピーカーから放送される仕組みだ。良く聞けば、なかなか複雑な音を組み合わせている。その音楽と、たった一人の歩行者の私。

川向こうの丘に建つ温泉センターのでかいビルに入ると、ホテルの受付みたいなカウンターがある。広いロビーには数人のドテラ姿が漂う。入浴料千円の字の向こうに立つ制服の女の子も、老人センターを知らなかった。
仕方なく丘を下りる途中、そこだけ声が沸き立っている飲み屋があった。ビッチリ駐車された乗用車の間をくぐって入ると、愛想の良い和服の女将が道を教えてくれた。念入りにも、外に出た私を追って川向こうのポツンとした明かりを指差した。もう寒さを感じない。

その平屋建ての一軒家の玄関は、ブーツがひしめいていた。中でミーティングらしい声がする。「今晩は」の大声に出てきたのは、例の巨体に長髪長ヒゲ顔のマサだ。そのまま「来た来た」と私を抱きしめ吊り上げる。押しつけてきた彼のセーターから(また料理番だよ)という匂いがする。昨年9月長野県も望月町の祭でも、機関車みたいに炊き出しをやっていた。あのころの私は絶好調で、テント生活を続けていたっけ。人間の運命なんて、判らないもんだ。事故は、あの直後だった。でも今日は2km歩いた。

大広間には円形に座ったウォーカー、風呂上りらしい、きれいな顔に汗まみれの服。ざっと40人か、意外にも女が多い、そして皆若い。つまり、こちらが歳とっているということだ。ウォークのリーダーであるハルの横に座らされた。先住民関係の若者は年長者を持ち上げるから、こそばゆい。マサの運んできた夕飯は豪勢なものだった。アメリカのウォークではスーパーのゴミ箱をあさって食いつなぐこともあると聞いていたから、せいぜい握り飯ぐらいかなと覚悟していたのだが。

それも、サークルの向こうで目をむき、七福神みたいなしわを重ねたゲンの顔を見て納得した。この大工の棟梁が駆けつけたら、食い物に不自由させはしない。北信州で彼が主催した祭も椀盤振る舞いだった。彼ともニッパチを通して知り合った。同じころ帰国したニッパチが、日本山妙法寺の坊主を止めたというので訪れたら、同じ村に住む新住民の隣人がゲンとマサだった。

またミーティングの輪に座る、ニッパチの未亡人ミユキと5歳の息子ユキウマともそう知り合ったし、日本人のサンダンサーとも、望月町で催されたスウェットロッジの熱い蒸気立ちこめる闇に会った。1年以上前、彼がガンで亡くなった時には、皆で手作りの葬式をした。彼は死んで、ネットワークを残した。
食いながらミーティングを聞いた。大鹿村で中央構造線博物館に勤めているカズが、何やら細かい説明をしている。

明日飯田市を通る時、コインランドリ−でまとめて洗濯をするが、男物は担当者がいるが女物にはまだいない、といった内容だ。つい「そんなの分けることねーじゃねぇか。アイヌの祭に行った時なんか、休憩時間に女用トイレ満員だったら、男用に女がゾロゾロ入ってきたぜ」と言ってしまった。途端に若い一人が「飯食っているのにトイレなんて」と言い返す。これなんだ、日本人。男用・女用、サラリーマン・フリーター、一般人・ヒッピーと、いつも区別する習わし。(分別ゴミじゃねーんだぞ)と言い返したいところだが、ノードラッグ、ノーアルコールで、高山からの132kmをただひたすらに歩いてきた真剣な表情の輪の中で、無礼行為は慎もう。グッとこらえて、ただ食べる。

気がつけば近くにボブが、借りてきた猫みたいにしゃがんでいる。酒が入れば大声まき散らす男だが、今日はすべて諦めきった坊さんだ。いつもの冬なら縄張りの南アルプスの雪面を歩いているのだが、去年の東海村臨界事故は彼を変えた。この前変わったのは、チェルノブイリ原発事故の時だった(俺も同じ心の時を歩いてきた)。また同じ大鹿村の長老役アキにとって、禁酒の効果は抜群だ。顔色がすっきりしてきた。あの心臓が時々止まるというのは、唯一の生き甲斐だった晩酌のせいだったんだな。生甲斐を止めたら生き返ったという、良くある例だ。

それにしても、このミーティングは学校臭い。校長がカズで、副校長はアキ、級長ハル、副級長アキオに、番長はボブだ。PTA会長にはゲンが控えている(それじゃ俺は、出戻りの登校拒否児か)。
ようやく放課後、料理室にマサと座りこんでいると、20歳前後のウォーカー数人も加わった。地方紙の記事やインターネットのホームページを見て参加したという。これまでこの種の集いでは見られなかった学生や、地味でまともな若者たちだ。ウォークのコンセプトより、ただ歩くことに魅かれて来たらしい。それでも、はるかアメリカの僻地で先祖ながらの生活をする。たった6人の先住民のおばあさん(編注・・文末参照)に迫る強制移住問題は、歩いている間に彼らにとってもシンボルとなってきたようだ。
何しろウォークの先頭には故ニッパチのピースパイプが捧げられている。ウォーク中は、このパイプを追い越せない。そしてウォークは一列となり間を開けてもいけない。歩くリズムが新人をも一体化させる。なかなかのリトリートだ。

この様式は、アメリカ先住民が彼らの存在の危機を訴える手段を全く持たなかった1978年に、ただ歩くしかないとアメリカ西海岸から東海岸へと横断した「ロンゲストウォーク」に始まった。
ニッパチは、それ以来のほとんどの先住民ウォークと、サバイバルキャンプに参加した。83年よりビッグマウンテンのサンダンス。近年は毎年40名ほどの日本人が、酷暑の荒原で断食しながら踊り続け、スウェットロッジを繰り返す。アメリカ・インディアンともお馴染みの関係となった。中にはピアシング(胸の皮に鋭い木片を突き通し、それをサンダンスツリーに結ばれたひもで引っ張り、皮を破る)をする日本人も何名かいる。彼らの間でニッパチは、もう伝説だ。美化されてさえいる。

朝は7時に出発するから、慌ただしい。パッキングたけなわの最中に、この宿舎を提供した村役場のミズカミが現れた。3年ほど前、この村の農村原風景復元のプロジェクトで協力してもらって以来のことだ。お姉さんが最近亡くなったとの葉書が届いたばかりだ。いつもの笑顔に哀しみが漂っている。かつてのように効率の良い話を交わした。国と自治体の借金は限度に来ていると言う。当事者が言うのだからリアルに響く。Y2Kは何とか越えたが、次なるXデイが待ち構えている。

出発は空き地でサークルの祈り、インディアンソングを歌った後だ。時速6kmで進む一行は、すぐ消えた。サポート隊は、掃除に後片付け、そしてトラックの荷台のリュックの山に食料鍋類を乗せる。
ミズカミの勧めた近くの神社に立ち寄り祈る。天の岩戸開きをさせた、踊りの儀式を発案した神を祀っているという。京都から延びる東山道が木曾山系を越えて、伊那谷に下りた谷である。神社の平安時代そのままの街道をたどった。足の裏より伝わる中世人の喜怒哀楽。頭上に響く、中央道恵那山トンネルに突入する車両の豪音。時代の深い断層を行く小道は、あっけなく舗装道路に阻まれた。

深く切れ込んだ伊那谷の道を北上し、ウォークの一行を追う。左手には中央アルプス、右手にはそれをしのぐスケールで南アルプスがそそり立っている。ここは諏訪湖の南から天竜川の東側に沿い、豊川の谷を通って紀伊半島に入り、四国から九州中部に及ぶ、大断層線である中央構造線の中心部。ユーラシアプレートと太平洋プレートの攻めぎ合う地点で、活断層もあまた走っている。次の大地震は松本あたりではないかと専門家は予測していて、私の古里でもあの盆地では、今や地震対策に追われているという。天災人災たて続けに起こる日本列島。そこをひたすら歩く若者たち。本能の告げる、災害対策の訓練であるのかもしれない。最後の手段は、歩くしかない。

実は、飯田市に入る手前の集落に、幕末の勤皇佐幕しのぎたけなわのころ、そこに住んでいた60代の老女が、江戸と京都に足をひんぱんに行き来して、薩長連合のために骨折ったことを記念する博物館があり、ウォークの一行にもぜひ訪問してもらいたいと勧めたかったのだか、何せ日本人の集団行動は単一イシューにこり固まっている。口に出す機会もなかった。ほかにも、前夜宿泊した阿智村には、終戦後満州から命からがら少女の身一つで歩き続けて引き揚げてきた老女が、日中友好のために中国の満州地方から青年たちを農業研修に招いたり、土地の子供たちに昔話や昔の童謡を伝える活動をしている。

ビッグマウンテンに居残るたった6人(編注・・文末)の老女のために歩くというのなら、その途中でこのように立派な日本の老女を訪れ、彼女たちの思いをも伝えるというビジョンもあってしかるべきだとは思うが、何せ今回は突然思い立ったウォークだ。日本国内の470kmを22日で歩き通すので精一杯だ。当初は歩きながら空き缶などのゴミ拾いをしていたそうだが、列が乱れ歩く速度が落ちるということでウォ−ク一筋となった。
繰り返すが、ウォークはパイプが先導し、だれもパイプキャリアーを追い越してはいけないことと、ウォークは常に一列となって継がれることが原則となっている。ノードラッグ、ノーアルコールと共に、交通量多い自動車道を歩くには、この原則が人身事故を防ぐ結界ともなっている。残念ながら、これからのウォークの課題として、寄り道の体験を考えよう。

阿智村の老女で思い出したが、伊那谷は満州入殖者を最も多く送り出した地方だ。それだけ貧しかったということだろう。3年前に彼女やかつての入殖者たちが、日本人に追い出された満州の村民を招いて講演会を催し、大鹿村のスマコが出席した直後にその内容を聞いたことがある。

日本から経済協力を重視する中国政府は、来日した数人の満州からの老人に監視役をつけたので、彼らはほとんど何も言えない状態だったらしいが、そこで日本人入殖者の感想を言う段になって女たちは(開拓というから、よっぽど荒れ地に入ることを覚悟して行ったのに、農家も農地も既にあるのはおかしいね)と、井戸端会議で話していたと思い出を語ったが、男はそれを全く当然と受け、今に至るまでそこで生活していた満州人を追い出した結果であったことに気づいていなかったという。

今、日本の男の老人が、すさまじく不機嫌なのは、彼の生きた時代を総括していないからに違いない。老いたら歴史観を身につけるべきだ。日本社会が成熟した落ち着きをもてないのは、目先のことばかりを追いかけてきて時代が、明治以来続いてきた当然の結末だろう。私事ながら、今年は58歳となる。心して自身の時代と、先代、先々代、更には江戸、戦国時代から縄文時代まで逆登って考察する必要を感じている。途中、コインランドリ−で男物の衣類を洗ってから、市内のレストラン経営者が招いた昼食会で、ウォークの一行と合流する。新住民の店というが年期が入って奥が深い。宴会場には40人が収まった。またまた見事な食事の後に、オーナーが関わっている在日朝鮮人問題について話を聞く。

人権問題の根は同じだ。武力による差別と虐待。日本人が、アメリカの白人と同じ構図で加害者側にいるという事実を、若い世代は理解しただろうか。秀吉の朝鮮戦役以来の歴史のツケも、次の世代に残される。
一方では、ゴーマニズムに代表される逆コースも目立ってきた。異民族との関係は先祖までたどって総括しなければ、開かれた関係は望めない。やられた側は遺伝子にまで記憶しているからだ。中国人も朝鮮人も、付き合わざるを得ない隣人だ。過去の罪ばかりに思いわずらうことはないが、自らの血には集団行動にのめり込むと、残虐行為を平然とする習性が伝えられている事実は、心しておくべきだ。

食後、ウォーカーは小雨の道に戻る。サポーターは車で天竜川右岸の大地に建つ、当日の宿泊所の禅寺へと先行。江戸時代からの寺は簡素な造りだが大広間と大きな台所がある。既に大鹿村新住民のカミさんたちが料理に立ち回っている。彼女たちのチームワークは、かつての日本の隣人同士のように親密なものだ。
彼らが住みついたのは、戦後満州入殖者が引き揚げて開拓した新開地が過疎地となった所だから、生活条件は厳しい。冬は寒く日当たりも悪い。それでも、そこで生まれた子供たちが、そろそろ一人前になるまで住み続けてきた。互いを元気づけるために、アボリジニやアメリカ先住民の一行を呼んだりした。私も日本で異文化に触れる機会をそこで得た。しかし、外国の伝統文化だけに反応するというのも情けないと、3年前の夏に他所者たる私と、少し離れて住むボブとミドリが、赤石岳の登山口にあたる山荘を借りきって10日間のワークショップを主とした合宿をした。全国から多くの人が参加したが、大鹿村の新住民は、そのしばらく後に亡くなったアキラと少年たち数人だけだった。やはり山間の集落に住むと、いつの間にか閉鎖的となるようだ。だがこのウォークは、何かを開いたようだ。78年「ロンゲストウォーク」に参加した新住民カズが積極的に乗り出し、キイステーション役を買って出た上に、何日も歩き続けた。アキは、位山から日比谷公園まで、サポート隊長を務め、息子のイタルも手助けをしている。シャイアン、プレム、アツシも歩いている。大鹿村の新住民が外に討って出た。これは画期的なことだ。

カミサンたちの炊き出しした夕飯も、豪勢なものだった。食いっぱぐれたら、ウォークに参加すれば良い。
食後の交流会。カミサンたちと彼女たちが連れてきた山の子供たちが高揚して主役となって、酒のないパーティーでも充分酔った気分となる。山の子供たちは、学校に1時間ほどかけて一緒に歩いて通う仲だ。兄弟みたいに理解し合っている。親たちは、かたくなな日本的面子と、プライバシーの殻から抜け出せなくとも、次の世代にはコミュニティ感覚が備わっている。宴の途中で、2年ほど前にヒッチハイクをした時に拾ってくれた飯田市の友人が現れた。あれ以来、この近くを通ると会うようにして手紙も交換する仲となった。今回は互いの都合でここで会うこととした。頻繁に海外を旅する一匹狼が、そこに座る。ウォーカー一行とはあまりにも異質に見える。互いに沈黙して、いぶかしがっている。ウォーカーに長期間一人旅をした者はまずいない。一人であってもコネを伝わる傾向がある。彼は宛てもなくふらつき、各地の文化の垢に染まってきたカオスの存在感を持つ。しかし帰国すれば、板前の仕事に戻らなければならない。二つのタイプの旅人が出逢った、偶然に。
早朝暗いうちに起き、寝袋姿転がる間を縫って、寺の外へ出る。眼下の飯田市の灯がスモッグに散らついている。ウォークといると、この時間しかプライバシーはない。江戸時代この寺の禅僧は、どう市街を見下ろしていたのだろうと思いを馳せるが、パチンコ屋の照明と車のヘッドライトがまぶし過ぎてロマンゼロ。当時の飯田は小京都と呼ばれるほどの文化都市であったと言う。

明るみが増すと、天竜川沿いに直線気味の堤防。この川にあまたあるダムの多くは9割方、砂で埋まっているが、その除去については中部電力も建設省も関わりなく放ったままである。砂は海に届かず、河口の浜松周辺の海岸では砂浜がほぼ消えた。地震学者は、ダムの基盤が元々弱く、活断層の走っているダムさえあるので決壊の危険があると指摘している。上流の砂防ダムは赤石岳直下まで続き、川石の間の隙間を砂で埋められ、巣を失った魚の姿は、ほぼ消えた。

私たちがワークショップ合宿を準備していた3年ほど前には、大鹿村唯一の道路を、トレーラーが同じ長さの牽引車を継ぎ、双方にようやく乗る太く巨大な丸太を、毎日運び出していた。村で抗議する者はだれもいない。建設省と林野庁を通して、ほとんどの仕事は提供されているのだ。
自然そのものが臨界に達している今、祈るよりほかはないのかもしれない。情熱かけるに値するのは、非生産的なことに限られてきたようだ。まずは、ゼロから始めることだ。森を失った猿が、荒原を歩き始めたように。
ウォークの出発前に、昼飯に立ち寄る峠のカトリック尼僧院の尼僧二人が現れた。60歳ほどの小柄な身体を灰色がかったワンピースに白いスカーフで覆っている、善意の象徴のような存在だ。マイノリティであるからこそ、徹底できるのだろう。

ウォークは今日、その大鹿村に行く最も古い道を行く。車もまず通らない。子供たちも同行する。そしてユーラシアプレートから太平洋プレートへの断層を越える。大鹿村では初めてリフレッシュデイが待っている。3日間の連続宿泊。その間にスウェットロッジの熱い闇に入る。地球のマグマを体験する。

私はまた鈍行で東京に戻る。ウォークのコンセプトに全面的に賛同したわけではないが、歩くという行為が人々を継ぐということを知った。東京のサポート集会に顔を出してみよう。

 

(編注)ビッグマウンテンの土地を放棄し、ホピ部族政府の借地人になる代わり、おばあさん一代限りは住める(実際は家畜を連れ去られたりなど、今まで通りの生活を続けられるわけではない)という「和解協定」に、サインを拒否している家長の人数を指しているが、バヒによれば15人〜50人というように正確な人数は判らない。また、家長以外の者も当然たくさんいる。(河本和朗)