日本のみなさんへ(バヒ・キャダニー)
ちっぽけな、アルミで出来た飛行機に乗って放射能を含んだ成層圏の中をつっきるのはまあ又別 の意味でつらいもんだが、そうして日本に到着した。大阪の沖合いにある関西国際空港で日本人サポーター達がいつものように暖かく迎えてくれた。 ハルが空港からの5kmの橋を渡っているときに この空港は山一つを崩してもってきて造られた人工島なんだと教えてくれた。第二次世界大戦後の大産業社会に戻ったようだなと思っているうちに小さくギュッと密集した大阪の都会に入ってしまった。 コンクリートと金属のジャングルの中の静かな場所についた。60年代のオルタナティブムーブメントのベテランであり、ながきに渡ってインディアンの闘争のサポーターであるユミコさんが我々を迎えてくれ、11月19日が特別 な日であることを思い出させてくれた。 島貫上人の3回忌の命日であった。仏壇のしつらえられた狭い道場兼オフィスで数人が祈りを捧げた。今回の旅は祈りと、古くからの仲間である仏教僧潤二上人のスピリットの招きで始まった。 "潤二上人" はかつてビッグマウンテン・サバイバルキャンプを訪れディネと伝統派ホピの生存とその平和の為に一生懸命祈り、働いた古くからの仲間である。 不運にも病に倒れ、戦士のごとく彼は逝ってしまった。時折、彼や他の僧のやり方で祈りを捧げるのだか、彼の母国ここ日本を旅する間は同じように祈るだろう。今回は12年前の初来日時とは違ってほぼ日本の南部地域にある数都市を訪ねる短い旅になる。車で本州の西岸から日本アルプスの山脈を東に超えて、それから太平洋岸の東にある東京、そして海岸沿いに南へ下り大阪の隣の都市神戸を訪れる。日本の80%は険しい山々という地形で、あとの残りの土地に農地、産業地、都市が密集して在る。 多くの場所で美しい "東洋的" 景色が見られるが 都会と高速道路と長ーいトンネルがどこにでもある。日本の西岸、日本海は初めてだった。険しい山々と小さな村に囲まれた美しい湾があった。半島の先端近くにパワーラインが内陸部に向かってのびている二つの原子力発電所があった。 サポーターであり、サンダンサーでもある山口ハルが原子力産業のほとんどがこの県にあるのだと教えてくれた。日本海を見つめながら私が "アメリカ人として" 受けた教育の知識でもって" じゃ、あれがチンギスハーンが日本に上陸しようとして台風にその艦隊のほとんどをやられてしまった海なんだね" " と尋ねると、ハルは" そうだろう。今はアジアのボートピーフルが仕事探しに渡ってくる。ガッポリ稼いで金持ちになって帰ってくよ。" と面白く答えた。 この日は内陸の福井市に向かう。その夜はたくさんの神社仏閣、眺めのよい場所や高いテレビ塔のある小さな山のこの都市の中心街で他のサポーター達に会った。数人の僧が平和の塔のまわりを忙しそうに掃いていたので我々も暗くなるまで手伝った。翌朝は12年前に至上の犠牲(ここはどう訳しましょう"
)を払った 他の者達も仏教を通じて宗教と瞑想に人間の在るべき真実を見出した。1980年代までに日本は産業界におけるリーダーシップをとりかつ、世界中に影響を及ぼす経済力を持つという劇的な変化があった。原子力産業は又、国家の需要を超える成長をし、八木上人と仲間の僧達は各地を祈り、歩いて(巡礼して)それをやめさせようとした。(阻止せんとした。)60年代のムーブメントに精神的影響を与えるや突然八木上人は七日間の断食と祈祷の後、自らを火の中に投じた。 私の中ではこの日本の平和運動はアメリカインディアンと日本人の間の連帯において終わってはいなかった。八木上人の導きと行いが正義の行進とインディアンの権利の闘争とにおいて団結させ、日本人(サポーター)をアメリカに向かわす礎となったのである。 日本山妙法寺と日本のウォークインビューティープロジェクトに招待されたことは名誉なことであり、、福井の寺にて八木上人を回顧し仏教古来の祈りを再び聴くにはよい機会でもあった。次に田舎の小さな農業団体の2箇所を訪ねた。極自然に、夜が明けてから農家の方達が春に向けての田植えの準備をしているのを見に出かけた。数人が敷き藁の積荷をショベルで下ろしたり、積み重ねたりしており、出入り口の雑木を燃やしている匂いが朝の冷たい空気に漂っていた。他の人達は野菜の収穫中で、後で漬物にする為にその野菜を外にある 長野近郊にてまた別にビッグマウンテン強制移住抵抗運動に対し捧ぐ意味でのディネ様式の家であるホーガン建設について話し合う集まりがあった。仲間の僧であり、活動家であった故日橋政男氏がこのプロジェクトの 次のミーティング先の亀山市(三重県)に車で移動の途中で富士山の傍を通 過したのだが、その姿は畏敬の念を起こさせるものであった。共にブラックメサにおける闘争について世間に広める活動をしているフォークシンガーの内田ボブ氏が "フジ" とはかつての太古に人々が話した言葉なんだと語った。 亀山(亀の山)は古都であり、かつて京都〜江戸間において幕府将軍の一行が逗留した主要な地の一つであった。1994年の阪神大震災で多大な被害を被った大都市神戸はまるで香港のような感じの都市であり、自然破壊の痕がみられず、日本の工業力の賜物である。幅広い意見がかわされ、話しを聴きに来た人々の多くがアメリカでそんな不正がまかりとおっているのかと大変驚いていた。暴力的な国というイメージはさておき、アメリカは世界中で人間の人権というものを主張することに関してはリーダーシップをとっているというイメージがある。 しかし、日本のサポーター達はインディアンの文化や宗教儀礼がもっとキチンと守られることを望んでいる。メインのディスカッションは全てのファミリー、コミュニティ、信仰生活を脅かす狂った科学技術の進歩からの地球全体の生存(サバイバル)についてである。有機農法を行う農家の人々は自然農法を復活させようと奮闘しており、自然を理解し、自然と共にあるインディアンの農業のやり方は大地にとって非常に大事な必要なことだと感じている。 日本における大規模な都市の拡張にともない脅かされつつある農地を救おうとする動きは、インディアンの居留地がアメリカの外国企業誘致と共同事業計画の為に削減されることにかなり関わりがある。私自身、ディネの人間として、日本に多大な衝撃を与えた太平洋岸における過去のアメリカ軍国主義について分かつ部分が多い。私は日本の人々にアメリカはインディアンを居留地から連れ出し、第二次世界大戦において太平洋岸で戦わせたことを名誉なことだったと思っていることを知ってもらわねばと言った。その戦いにおけるほとんど全ての暗号がディネの言葉を使用したものであって日本帝国軍は解読出来なかったのだ、そういうことにより 最後に一番言っておくべきことは引き続いている核の時代の脅威であった。ブラックメサにおける現代の、文化的荒廃について聴きにやってきた人々はさらなる核製品製造を止めさせる努力に対し、インディアンの励ましを求めている。日本はウラン鉱についてもっと知りたいと思っているし、それがインディアンのコミュニティに影響を及ぼす。多くのウラン鉱山は他国の安い製品の為に縮小したが土地、地下水、そして人間や動物の肺への放射能汚染の影響そのまま続いている。 何千人というディネやプエブロの人々がウラン鉱山での労働により亡くなったのだが伝統派の人々は未だに遺棄された鉱山、鉱山穴、積み上げられた鉱さいのそばで生活せねばならない。確かに、原子力管理委員会は一つ大きな事をやってのけたが長期にわたる遺伝性の障害や変化(後遺症)はそのままなのだインディアン居留地は社会的、経済的に恵まれないばかりか隔離された社会であるため、納得のいく調査が不可能である。 かつてウラン採掘をしていた鉱山、精製工場地区にもとから住んでいる人々は未だに異常出産や絶えぬ 奇妙な病を訴えており、西洋医学でも伝統的な治療医によっても治せないといっている。インディアンの視点から言わせてもらえばこの核の時代が人類絶滅の時代をあらわしているように思える。日本の反核運動、原爆から生き残った人々、フォーコーナーのインディアン達はこの核による殺人において関わっている。ディネやプエブロの地から掘り起こされたウラン鉱はロスアラモスの研究所に運ばれ、原子爆弾になり、広島と長崎に落とされたのだ。 日本人とアメリカインディアン達の結びつきは強い。この連帯の歴史はAIM(アメリカインディアンムーブメント)のスポークスマンであり創設者の一人の故ピル・ワペパ氏と伝統派ホピの故トーマス・バニヤッケ氏のご尽力により始まり、今日に至っても我々の多くが歓迎されている。インディアンの抱える問題を日本の人々に伝えたAIM創設者の一人デニス・バンクス氏とラコタ族の精神的指導者の故アーチー・ファイアー・レイムディアー氏。ごく最近日本を訪れたところではラコタのメディスンマン、故ロバート・スティード氏と 現在、日本のサポーター達は又、アメリカ大使館とホワイトハウスに対して、さらなるプレッシャーをかける計画を望んでいる。10月17日の東京での大使館までのレインボーパレードでは4,000名にのぼる署名と数枚の手紙を大使館ゲートに届けた。まもなくさらに多くの署名が届けられるだろう。これにより、アメリカ大使館員も多くの日本人がビッグマウンテンにおいてと他の伝統派ディネが立ち退きを迫られている所における 伝統派ディネの強制移住に対する最終期限である2000年2月1日を日本の人々やサポーターは気にかけている。数人の長期にわたる活動家やまとめ役は2000年1月後半に更なる行動を始めると言っている。その一つはビッグマウンテンへのウォークである。 1978年のロングウォーク日本人参加者のカズ氏と1960年代反核活動家ポン氏の両氏がビッグマウンテンへの太平洋横断ウォークの為のネットワークを再編しようと考えた。別 のエコロジーオーガナイザーとオルタナティブ論者(はて" )も又、抵抗運動に関わっているディネと日本の間の連帯に全面 的な協力を誓っている。(支援をおしまないといっている。)山田塊也氏(ポンチャン)によると、彼の生まれた所、日本列島をちょうど真中で分かつ位 置にある高山市近くの位山の太陽神社からウォークを始めたらよかろうということだ。 ブラックメサの抵抗運動に寄せて建造するホーガンは長野市の近くに建てられる。日光玄氏が工事の監督をやり、日本人の大工の腕だけに頼らず 仲間、友達、(ホーガン)建設に興味のある人達のためにワークショップを開くつもりだ。そのワークショップは主にディネの抵抗運動の状況とホーガンというものが持つ意味と人間の一生との関わり(繋がり)を主に視野にいれて開くだろう。このホーガンは、僧であり活動家であった故日橋政男氏を称える意味においても建設されるのだ。ホーガンを建てることは彼の願いでもあった。私と日光氏はディネと日本の様式を融合させてデザインするつもりだ。このホーガンがそういったホーガンの第一号となるであろう。 最後に訪れたのは日本列島の南に位置する九州であった。熊本市の先にある日本山妙法寺で日橋政男氏の法要が執り行われた。僧、尼僧、本州からやってきた日本のサポーター、沢山の農家の人達オルタナティブ ビジネス関係、ミュージシャン、アーティストが集う素晴らしい法要であった。日橋氏が残したもの、それはインディアンの礼拝のやり方に対して敬意を払うということだ。私は彼のことは1978年のロンゲストウォーク 九州は素晴らしい島である。私が訪れた頃、秋は特に素晴らしいシーズンであった。蚊もいないし、蒸し暑い夏も過ぎ去っていた。もしどなたか日本に行く機会があれば、九州は大地の力を感じることができるから訪ねるべきである。全火山が活動している(活火山)なので温泉が好きであればなおさらである。 そして最後は私の精神的兄弟であるウイングロックエンターブライズのマエサキ・リキ氏を訪ねることと、活動し続けている火山、阿蘇山を訪れることであった。60kmに渡って広がるカルデラの中心にある阿蘇山は九州と他の活火山の生みの親であった。ディネの習慣として又12年ぶりの再訪に対する感謝を込めて 私のつたない文章を読んでくださってありがとう。 チーフ バルボンチートのスピリットと共に。 バヒ (訳:ヨーコ) |