●皆さんの祈りと支援に感謝を込めて(Bahe)

サポーターの皆さん ごきげんよう。

 メールのできる人たちのリストが限られてる事もあって、他にいろいろと政府の会議事項 (Fed Agendas) の代わりにディネの国における伝統的かつ文化的抵抗(運動)についての話を今回皆さんと分かち合いたいと思います。まず最初の最新情報は、古来のサバイバル法と礼拝の執り行い方の復活という、まず私が個人的に信じている事から始めねばなりません。
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ディネの聖地巡礼:
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 7月最後の週に、私は年老いた両親と共にディネの国の聖なる山へ聖地巡礼に行きました。大変素晴らしい旅となって、両親もいつか詣でなければという深い信仰心が満たされ大変感謝感激しました。70代後半を迎えた両親も(他の何千人というディネの人々がそうであるように)古来の聖地を訪れたことがなかったのですが今回訪れる事が出来て、聖なる山の土の包み(The Sacred Mountain Soil Bundle)というディネの聖地における古来の最も大切な掟(教え)を守りつづけたいという彼らの願いもより強いものとなったように思われました。
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 多くの皆さんは、平原の部族(ラコタ、スー族)の人々の聖なるホワイトバッファローカーフのパイブの話をご存知の事と思いますが、我々ディネのこの聖なる山の土の包みというのもグレートスピリット『大いなる大霊』より我々が賜った古来の教えの命ずるものとして大変それと似通っています。
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 さて、まず最初に私の両親につい少し触れたいと思います。私が17歳で強制移住に対する抵抗運動に関わるようになりました。時、私に裏庭をそのまま残しておいて欲しいというメッセージを合衆国地質調査局とBIAインディアン局土地調査員達に届けさせたのは母でした。調査員達が母の要求を無視すると母は調査員達を朝早くたたき出して、土地の測量[調査)を終えさせませんでした。
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 私は腐敗したマクドナルド議長の下にあるナバホ部族議会との会合の間 臨時の書記官になってくれとたのまれました。書記官になってから、フェニックスの建築会社の製図工に戻るよりも、これはいい機会だと思い、両親も含む長老達の為のボランティアとして留まりました。
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 1978年のロンゲストウォークは アメリカ全土から集まった何百というインディアン各部族による大陸横断大行進でありました。私は、このウォークに両親の支援で参加したのですが、まず最初にこの旅が無事にそしてこの行進で強制移住に対する抵抗運動という目的がかなえられるようにとメディスンマン達が祈りを捧げてくれました。
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 強制移住に抵抗を続ける人々とその身内の者達は絶えず会合を持ち、私は出来るだけ行進についての最新情報を彼らに送り、彼らは何度か寄付を募って靴やソックス、バックパック、の為や食費の足しにと私に送ってくれました。しかし、常に両親は私に出来うる限りの支援をおしみませんでした。この行進の後、ニューメキシコ州のシップロックでの労働者暴動、同じくニューメキシコ州のファーミントンの反人種差別連合、ユタ州のモンテスマ・クリークの石油会社への反対運動といったような反対運動から出てきたばっかりの数人のディネの兄弟姉妹(注:兄弟姉妹といっても必ずしも本当の血縁者とは限らなく同士という意味)が集まり、我々はフェンス設置を現地で監視する事にしました。そこで、最初のレジスタンス・キャンプは、オークランドのサバイバルスクール(ビル・ワベバ校長)の多大なる協力により活動が始められ、私の両親の家の敷地に建てられました。両親は、キャンプ参加者達の食事、車の送迎他いろいろの手助けをしました。さて、ほとんどの皆さんは現地のサボーター達をご承知でしょうが、非インディアンのサポートグループができるずっと前に私の両親がそういったことで活動を手助けしたことを知っていただきたいのです。
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 現在、私の両親は、ほぼ98%の牧草地を失いNPL(ナバホ分割区)地区のすみっこにおしこめられ、彼らの家畜を放牧する場所がもう他にどこにもありません。移住してしまった親戚の多くが両親に、あんた達は邪魔者だと言っていますが、両親は、ビッグマウンテンの信仰を守って生きる生活を信じつづけるでしょう。両親は、ホピ分割区の親戚達の為に活動しないようにと言ったりしませんし、私が ホピ分割区の強制移住に抵抗する人々をサポートしても、その為のガソリン代を拒んだりしません。私は 両親に強制移住の抵抗運動の経過やサポートの内容、他にディネ文化の復興の事などについて情報を送りつづけています。ですから、両親を巡礼に連れていったのは 両親の願いであり、私だけでなく多くの強制移住と戦うサポーターの皆さんに対する両親の長期にわたる支援に感謝を捧げてのことでした。
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 言葉では、巡礼(参詣)のことを言い表せません。私達ディネの起源ともいうべき場所に行くということは大変感動する経験です。もしあなたが 少しばかりディネの信仰について知っていたならば想像してみてください、ホワイトシェルが現れ、双子の戦士の神が遊び育った所、そして、あなたが入山した所から10,000フィート(約3,000m)も高い場所にいると。私の母は、関節炎にもかかわらず、聖なる山の頂きを見つめながら古来の祈りを捧げるため 杖をついて登りました。物静かでやさしい父は ディネの古い山の祈りを唱え、800マイル(約1,287キロ)にも及ぶ旅にもかかわらず大変忍耐強い所を見せました。
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 私自身としては ビッグマウンテンの女神を忘れずにいよう、そして、その子供達(ディネの人々)がいつの日にか自由になりディネの人々が混乱を捨て去りブラックメサの神を信じる道に戻れますようにと思いました。私は 私達ディネの文化、信仰を守ろうとベストを尽くしてくれている全ての素晴らしいサポーターたちのことを忘れずにいようと思いました。私は父がスピリットに、もはやこの聖域を訪れる事のない我々の身内の者達(ディネの人々の事)に哀れみを乞い祈っているのを聞き、深い悲しみに襲われました。
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 父は我々が祈りの詩や我々の祈祷(詠唱)の数々を失いつつある事 そして聖域を忘れつつある事について哀れみを乞いました。両親がディネの大いなる神々に 古来の捧げ物を捧げている時私は傍らに座り、私は私の生き方で生き永らえれるのか、それにいつか再びこの聖なる山々を両親の歩んだ跡を辿り 登ることが出来るのだろうかと思いました。
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私には他の長老達もこの聖域に連れて行きたいという夢を持っています。聖域までは かなり距離がある上、費用も凄く掛かるということが判りました。30年間鉄道で働いた父の年金でこのとりわけ大事な巡礼の旅の費用が賄えてよかったと思います。私はただの案内人だったし、たぶん危機に晒されたディネの生き方を守リ抜きたい、とその方法を探っている人にすぎないのです。
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抵抗運動:
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 ポーリーン・ホワイトシンガーとロバータ・ブラックゴートは各サポーターグループに『現地駐留(野営)』することを真剣に考え始めて欲しいと要求しました。二人はホピBIA(インディアン局)が資本主義的侵害をし続ける限り強制移住に抵抗する者は(外地からではなく)現地からプレッシャーを与えなくてはと思っています。サポーターの皆さんに以前の監視キャンプの在る所に来てもらいたく、そうすれば伝統派の二人がサポーターが滞在中の安全の保障はまちがいなくしますでしょう。二人は、以前のキャンプ地は建てかえられて、現地駐留(野営)は快適になると言っています。
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 現在、ミズ・スワンイーグルは、キャンプ地を出てきており、サポーターに応答あるいは来てくれる事、手助けを望んでいます。ホピインディアン局警察がミス・スワンイーグルに立ち去れと強制移住の脅しをかけています。しかし、ポーリーンが代弁して、警察に彼女は今このキャンプに居たいのだと言いました。
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 我々全員、2000年2月1日という(強制移住の)最終期限日について真剣に取り組み始めねばなりません。まちがいなく、法廷も政府の役人も部族政府も大統領命令(PL93−53 強制移住)の進行を止める力はなく、現在強制移住に抵抗している現地でやってるような効果的な活動は受け入れないでしょう。多分、1960年代への逆行です。どうやって大統領命令(ベトナム戦争)はストップしました?人々による大きな運動によってです!
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 各サポーターグループは 真剣にネットワーク化を始め、一点に集中させるか合体して一つの連合とするかしなくてはなりません。大きな音楽イベントや著名なサポートとのツアーなどといった大掛かりなメディアをつかったキャンペーンについて話合ってください。。繰り返し言っておきますと、あくまでも土地が争点であり、もし我々人間が現地に留まっていたとしたら彼ら(ピーボディ鉱山会社と連邦政府)は伝統派の長老達と話さねばならないでしょう。
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皆さんの祈りと支援に感謝を込めて

チーフ・バルボンチートの魂と共に…バヒ

(翻訳:YOKO)


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