●日本山妙法寺とOYAMA(ビッグマウンテン)

 『1978年のロンゲストウォ−ク』は、アメリカ合衆国中のアメリカン・インディアン・ムーブメントにより組織されたスピリチュアルな行進であった。この行進はアメリカ政府の反インディアン議会に対し抗議する為、大陸横断(太平洋岸から大西洋岸まで)の行進をするというものであった。インディアンの土地、資源(水産品、森林、水、その他)、条約、子供の問題、宗教に対して規制のある多くの法律が制定されようとしていたからである。

 ビッグマウンテンの抵抗は1977年の終わりに起こり、ビッグマウンテンの長老達はビッグマウンテンの問題をこのウォークによる抗議の一部とすべきだとした。そして私(バヒ・キャダニー)はウォークに参加することを申し出た。私はデニス・バンクス(注:アメリカン・インディアン・ムーブメント、略してA.I.M.の指導者の一人。)に行進への参加許可を求めたのであるが、最終的にディネの下院議員も一人参加することになったため彼は歓迎してくれた。ビッグマウンテンのメディスンマンが祈りをささげ、そして神聖なる奉げ物を行進に持っていくようにと告げた。私は行進が渡る最初の大きな川に奉げ物をすることになっていた。

 コロラドのグランドジャンクション近くのコロラド川を渡る前に聖なる石や花粉を川に奉げる時、ラコタの精神的指導者達が加わった。1978年3月に行進の一行がコロラドのプエブロ近くで休息をとった時、多くの仏教僧と尼僧が毎朝毎晩お題目を唱えた。キャンプ中、ビッグマウンテンからメディスンマンと数人の長老が行進の支援に訪れ、メディスンマンがさらに祈りと奉げ物をした。それからメディスンマンが私に全インディアンへ強制移住とブラックメサ炭鉱について話し始めるように命じた。行進でのそれからの5ヶ月間、私はビッグマウンテンの立場について語り、ディネの抱える問題が全インディアン、アメリカの人々、そして各国の代表に知られるようになった。日本山妙法寺の僧たちは、我々インディアンと共に歩みながら毎日平和を祈りつづけた。私はこれらの僧達が全インディアンの抱える諸問題についての情報を収集し、日本に送っていたことを知らなかった。 日本山妙法寺山主、藤井日達御上人がワシントンD.C.に向かう『1978年のロンゲストウォーク』最後の行進に加わり、50余りの仏教僧の団扇太鼓が今も私の耳に残る、かつて聞いたことのない素晴らしく力強いビートを叩き出した。

 行進の終わりには、数人のラコタの人達にサンダンスを観るよう招待されたので東海岸からそのままサウスダコタへ出かけた。サウスダコタ州ポーキュパイン(ウーンデッド・ニーから丁度小川を下ったところ)で初めてサンダンスを観た。そこでラリー・アンダーソン(ビッグマウンテンのA.I.M.顧問)が踊り、ピアッシング(注:サンダンス場の中央に立てられた聖なる木からローブで繋げられたチョークチェリーの枝を削って作ったくさび状の短い棒を腕、胸、背中等の身体に刺して祈りと共に体重を掛け、自らの力で皮膚を切り裂く、儀式の中のわが身を奉げる行為のひとつ)するのを観た。

 ラリーは私に『1978年のロンゲストウォーク』に敬意を表すためにサンダンスが初めて行われたグリーングラスに行くべきだと語った。ビッグマウンテンに戻ってから、サウスダコタ州イーグルビュート近くのグリーングラスでの最初のサンダンスに参加しに行った。そこで私は仏教僧と尼僧(日橋上人、澤田上人と彼の姉であるヒロコ庵主さん、石橋上人、安田庵主さん)に会った。

 そのときより私はビッグマウンテンの抵抗運動を共にする贈り物か何かを与えられたように感じた。この贈り物か何かとは浄化のためのサンダンスと強制移住に対して戦いながらも我々が平和を思いつづけられるよう『南妙法蓮華経』と唱えることである。1978年の9月はじめ、私はトーマス・バニヤッケ氏(代表的なホピの伝統派指導者)に会って彼と移住問題について話すため、そして伝統派のホピの長老達をビッグマウンテンに招く為にホピの国を走っていた。と、一台の古いスクールバスがゆっくりと走っていた。その中には見慣れた剃りあげた "はげ頭" が見えた。

 私は、仏教僧と尼僧でいっぱいのバスを追い越してトーマス氏に会いにいった。私がトーマス氏の家にいた時に日本人とアイヌの人々でいっぱいのバスが現れ、その日の午後中、おいしい食べ物とどのように皆が心をひとつにして私達の愛すべき母なる大地を救うかという話し合いで満たされた。

 日本山妙法寺の僧や尼僧は、ホピとディネの国を訪れては平和を祈ることを続けた。1980年の『ロングウォーク・フォー・サバイバル』は、ビッグマウンテンを通 過し、これらの僧や尼僧は "OYAMA" (大山-ビッグマウンテン)で祈り長老達をマッサージし、料理をし、笑い、そしてディネの言葉を学ぼうとし、長い長い時を過ごした。1981年にBIA(部族評議会)がホピ分割区における全権を得んとする恐れがあったことにより、サバイバルキャンプが始まった。日橋政男氏、澤田上人、ジュンさん、島貫上人が1980年代から1990年代にかけ

 ディネとホピの伝統派の抵抗運動を支援した。その他に、ドキュメンタリー映画『ホピの予言』製作者である宮田雪氏がディネ/ホピの措かれている立場についての関心を日本の人々にもたらした。今日では、ビッグマウンテンに住むディネと日本人は以前にも増して分かち合い、ひとつの家族となり、平和を祈り続けている。

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ラコタのサンダンスがディネの国へ:

 『1978年のロンゲストウォーク』と、ベトナム帰還兵であり、《1973年の)ウーンデッドニーの攻防のベテランであり、ディネであるラリー・アンダーソンは、ラコタの精神的指導者達とビッグマウンテンで抵抗するディネの長老達の対話をとりもった。

 1979年から1983年まで私とラリーは、数え切れないほど何度もサウスダコタへ赴き、多くのラコタのA.I.M.の指導者、メディスンマン、チーフ、女性の指導者に会い、それぞれのグループあるいは個人とディネの国にラコタのサンダンスをもたらすことについて話し合った。ラコタの国とのこういった会合は、サバイバルスクールのバウワウで、条約会議で、A.I.M.の会議で、ウーンデッドニーの記念集会で、それからごく普通 に指導者の家を訪ねたときに行われた。その度に我々はビッグマウンテンに戻って、ラコタの国々との対話の状況についてディネの長老達に伝えた。

 1982年までには、長老達はディネの地にてサンダンスを行うことを承諾した。それはラコタのサンダンスWAYの理解をもたらす古来の予言であった。ラコタの予言は、いつかサンダンスの聖なる輪は亀の国(注:アメリカ大陸の事)中に伝わり、多くのインディアンを一つにまとめる聖なる輪に導くだろうと告げている。ラコタによると、このサンダンスのやり方はクレイジー=ホースやシッティング=ブル、パイユート族の聖人ウォボカの時代よりも前に伝わった。もう一度言おう、それは、サンダンスが浄化を求める亀の島の南西部の全ての土地、全ての国々に伝わるべき時だった、だから彼らは先祖伝来の土地を守る為に戦う事が出来るのだ。

 ディネの予言もまたディネの人々がグレートスピリット(創造主)に彼らの土地をお守りくださいと願うために肉体の一部を奉げるであろう日の事を告げた。ディネの古代の儀式も又、聖なる輪を生命の繋がりと調和のシンボルとして用いた。平原インディアンのサンダンスはラコタの精神的指導者の指導の元、ビッグマウンテンのディネによって執り行われ。他のディネの人々に伝えられねばならなかった。ディネの国におけるサンダンスは長老達を追い出そうとするものや聖なる土地を掘り起こそうとするものから先祖伝来の土地を守る為の心と身体の浄化にのみ行なわれなくてはならない。最初のサンダンスは1983年8月にビッグマウンテン、ディネ独立国のサバイバルキャンプにて行なわれた。4年目のサンダンスはディネ全家族の強制移住の退去期限である1986年7月6日に行う予定であった。

 ラコタのサンダンスチーフの指示のもとに、白人にはサンダンスの聖なる輪に立ち入らせないことを宣言した。『黄色い人々と黒い人々は赤い同朋である。インディアンと共に踊り、ピアッシングすることを許されるであろう。なぜならば、黄色い人々は神聖な神社や罪のない子供達の上に白人が落とした原子爆弾に苦しめられた。そして黒い人々も、奴隷にされ、さらわれ、インディアンに対する傭兵にさせられて苦しめられた。これも白人の犯したことである。おそらく、いつかは白人にも聖なるサンダンスを踊ることを許すであろうが過去5世紀に渡り、我々の祖先に負わせた傷を癒す事ができるのは遥か先のことである。』

 これはディネとホピの文化の保護に対する日本の支援も含めた各国の関心の中で、ビッグマウンテンにおける抵抗運動についての理解を得るために文章にしたものです。また、いかに日本山妙法寺の祈りがビッグマウンテン闘争における精神的支援となるかという事と、ディネの国においてのラコタ・サンダンスを行う目的を理解する手助けとなるであることを願います。私は創造主が犠牲にしたこの地に、多くのことを学び、関わったことで目立った存在だったかもしれないが、精神的調和のこれらの過程における一端となる名誉を胸に抱きつづけます。

[後記:わが身を奉げる行為をどのようにディネの予言が物語っているかは、大変神聖な内容であり、ディネやラコタのメディスンマンの人々以外は語る事が出来ないため、詳しい話は省かれています。]

チーフ・バルボンチートの魂のもとに ……… バヒ


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